価値について①

価値を変化させるということは、自身に対して負荷をかけるということである。価値が変化する状況は、価値が変化しない状況に比べて、自身にかけられる負荷は大きなものになる。

価値という言葉の意味について考えたいと思ったのは、自分がどうしても拘ってしまうこと、こうでなければならないと感じてしまうこと、AではなくBを選ぶべきだと考えてしまうことなど、これら一連の窮屈な発想はいったいどこから来るのだろう? と思ったことがきっかけだった。こうした拘りは、その理由について考えることができるし、その正当性について説明することもできる。自分がそのように考えるに至った背景についても、後付けではあるのかもしれないが、ある程度は説得力のある形で提示できるはずだ。

けれど、それではその自分の拘りというものがどこまで妥当なものなのか。例えばBではなくAを選ぶ人に対して、自分がAではなくBを選ぶ理由を説明し、相手にも自分と同じようにAではなくBを選ぶように説得すること。それがどこまで妥当なものなのかと問われると、自分がこれまで考えてきた価値というものへの信頼は失われ、自分の判断は自分の判断としては適切なものであったとして、だからと言って相手の判断が間違っているとは限らないし、自分の考える価値というものが絶対だなどとはとても考えられない、という思いに駆られてしまう。

私たちは、世界を構成する諸要素について、「価値がある」「価値がない」という言い方をする。そしてある人にとっては価値のあることでも、別のある人にとっては何の価値もないことである、という事実を知っている。人はそれぞれ「価値がある」と思うことを選択し、「価値がない」と思うことを選択しないことで、効率的に行動し、生活している。価値のフィルターは、無駄な諸要素をカットし、有益な諸要素のみをインプットするための手段である。そして、こうした価値を取捨選択する際の基準は人によって異なるものであり、絶対的なものではないことを知っている。

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表現と搾取②

表現は、搾取の渦中に身を置きながら、その意味を反転させることができる。それは、「搾取されること」から「与えること」への転換である。

写す、描く、奏でる、書く、演じる。これらはすべて、「搾取でない」と言えるだろうか?

表現は、写すことによって、描くことによって、奏でることによって、書くことによって、演じることによって、他者からの搾取を行っている。それは、表現を実現するために必要となる、顕在的/潜在的なインプットである。そしてここで言う「他者」とは、人に限ることなく、社会や自然、動物、モノ、出来事であったりする。つまりそれは、「世界」を構成している諸要素である。

表現は搾取によって生まれるが、表現はそれ自体もまた搾取の対象となる。搾取されたくないのであれば、誰にも見られることのない場所に隠しておけばよい。しかし、表現をいったん外に出したなら、その時点から、表現は奪われる対象となる。表現Xを、見る、聴く、読む、考える、語る…。表現が搾取の対象となるのは、文字通りそれが「表に現れる」ことによってである。

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表現と搾取①

表現者は、収奪者であることから逃れることができない。とはいえ、表現者にできることが何もないわけではない。

表現とは搾取を伴うものだ。写真、絵画、映画、演劇、音楽、文学、評論…。搾取を伴わない表現というものは、いったいありうるのだろうか? 搾取、収奪、奪うこと。写真は、被写体となった人物やモノ、出来事から視覚的/記憶的な搾取を行うことによって生まれる表現である。写真に撮られた被写体は、撮影者によって自身の何がしかを奪われてある。表現とはアウトプットであり、アウトプットの前にはインプットがある。そしてインプットからアウトプットへの過程では、何らかの収奪が行われる。

表現による搾取は、表現者自身がその対象となることもあれば、表現者以外の他者がその対象になることもある。表現者自身が対象になる場合、「私は奪われている」ということが、表現としての価値(すべてではないにしても)を担う。他者が対象になる場合、「その人は奪われている」ということが、表現としての価値(すべてではないにしても)を担う。そして、表現者はこの「表現の価値が搾取に負っているという事実」に自覚的でなければならない。

搾取を行った表現が、搾取の対価を「補償」することは期待できない。対象Aから奪うことによって成立した表現は、別の対象Bに何かを与えることはあっても、対象Aに代償を払うことはない。対象A→表現→対象Bという流れはあっても、対象A→表現→対象Aという流れは生まれえないのだ。搾取の主体と搾取の対象は、奪い/奪われる関係しか作りえない。それは、搾取の対象が表現者自身である場合も、表現者以外の他者である場合も同じである。

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動機マイニング

結局のところ「本を作る」ということは、その著者がこれまでに経験してきたプロセスを、それを経験したことのない人に向けて、「本」という形で伝える作業にほかならない。

この人は、これまでどんな人生を経てきたのだろう。どんな仕事をして、どんな知識や経験を得て、どんな価値観を養ってきたのだろう。また、この人は朝何時に起きて、いつ、どこで仕事を始め、いつ仕事を終えて、いつ眠るのだろう。そして、この人はどんな家族がいて、交友関係があり、どんな人と仕事をして、どんな人に、何を伝えたいと思っているのだろう。

本の著者との打ち合わせで、このようなことを考え、そしてこれらの疑問を投げかけてみる。すると、この人がどんな本を作りたいと思っていて、どんな本を作ることができて、その本はどんな人に届けるとよいのかがわかってくる。本は、それを書く人の内側にないものを反映することはできないし、内側にあるすべてを反映することもできない。そして、本はその人のある特定の一部を、ある角度からしか切り取ることができない。

この「特定の一部」とは本の内容であり、「ある角度から」というのは形式である。形式は、演出や仕組みと言い換えることもできる。同じ内容を扱っても、切り取る角度が変われば、それは異なる本になる。内容や形式の大半は、「その人」が持っている「その人性」によって決定づけられる。本に落とし込むことができるのは、その人の総体であり、その人の持っている思想、性格、価値観である。要は、「無理は効かない」ということだ。

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マイナーであること

そしてここに、「個としてのマイナー」が現れる。 それは、マイノリティであることを拒否する「マイナー+個X」である。

写真家石黒健治は、「私はマイナーである」と自己規定する。そこに、自身を揶揄する響きはあるだろうか? その答えの如何に関わらず、私は石黒健治がマイナーな写真家であるということに賛同する。もちろん、肯定的に賛同するのだ。

それにしても、「マイナー」とはいったい何だろう? 辞書で「マイナー」を調べると、「より小さい」「より少ない」「より劣る」という意味の形容詞であることがわかる。また、「知名度が低い」という意味もある。マイナーの対義語は「メジャー」である。マイナーは、メジャーに比べて「小さい」「少ない」「劣っている」「知られていない」存在であるということだ。

また、「マイノリティ」「マジョリティ」という言葉がある。これは形容詞である「マイナー」「メジャー」を名詞化した言葉で、それぞれ「少数派」「多数派」という意味がある。マイノリティ、マジョリティは、ある共通の性質をもった人や物の集まりを意味する集合名詞である。マイノリティ、マジョリティは、「誰か1人」を指す言葉ではない。マイナーな人の、メジャーな人の集まり、集団を意味している。

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