親密さの発見

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

全体と部分について、人についてもまた、全体と部分を同時に見ることはできないように思います。人の全体とは「この人はこういう人であるだろう」という言語化可能な印象であり、イメージです。こうした印象、イメージはいわば「デフォルメされたもの」であり、全体そのものではありません。「全体を一言でいえば」ということです。

「デフォルメされた全体」は、簡略化されたその性質ゆえに、流通しやすく、認知しやすいものです。それは言葉による説明、性格や経歴、職業、収入、実績、作品であったりするかもしれません。あるいは、身長、体重、歩く速さ、声の大きさなど、数字によって説明できるものかもしれません。

こうした言葉や数字の集積は、あたかもその人の「全体」を見ることができているかのような錯覚を呼び起こします。ネットに溢れるプロフィールや、履歴書、自己紹介などがそれにあたるでしょうか。こうした全体は、その人のあらすじ、概略を示すものです。つまり「すべて」ではなく、部分をそぎ落とすことによって「全体」と見せています。

そしてこうした「まやかしの全体」を突き破ることができるのは、部分、細部です。その人のちょっとした表情、声、言葉、仕草、行動、手触り。それらが小さいものであればあるほど、それはその人の特徴を表現しています。そしてこうした細部にこそ、人は感情を動かされ、その人に対する関心を呼び起こされるのです。

こうした細部は、記録ではなく記憶です。1点のみの記憶。しかしその細部の記憶によって、その人に対する理解や思い、感情は広く展開していきます。それまで折りたたまれていた感情が大きく展開し、広げられ、認識できないくらいまでの大きさへと広がっていきます。それはあたかも荘司における鵬の話のようです。

そして、その人の「真実」というものがあるとすれば、それはこうした細部にこそ「現れる」ものだと言えます。そしてそのようにして現れた細部に対して、「私」の側もまた同じく私の細部によって接すること。それによってこそ、私と私は、それぞれの真実によって関係を作り上げていくことができます。

親密さは、こうした細部の積み重ねによって作り上げられる環境、雰囲気です。そこには居心地の良い、気持ちの良い感情ばかりではなく、怒りや悲しみといったネガティブな感情も含まれます。そして、その結果、離別してしまうことがあったとしても、それもまた親密さのなせる業なのだといえます。

親密さは幸福なものばかりではありませんが、かといって離別もまた、それほどネガティブなものとは言えません。死や仲違い、離婚、解散、卒業、離職、いつしか疎遠になるなど。親密さには変化があり、新陳代謝があります。置き換え、入れ替え、理由のわからない決別は、親密さの結果によるものです。

こうした細部と全体を一度に見ることはできません。人の全体を見ようとすれば部分は見えなくなり、部分を見ようとすれば全体は見えなくなります。どちらを見ようとするかは、その人の倫理、価値判断の問題です。

また、細部の積み重ねがその人の「全体」を形作ることはありません。部分から全体を見るというアプローチは不可能であり、全体へのアプローチはそもそものはじめから全体から始めるしかないのかもしれません。それは最初から終わりまで「デフォルメされた全体」なのであり、それは「まやかしの全体」でしかないのです。

その人の細部に目を向ければ、まやかしの全体は見えなくなります。反対に、まやかしの全体に目を向ければ、その人の細部は見えなくなります。人は、どちらの方法で人を見るかを決めなければなりません。そこには観察の重要性があり、また観察の結果に対する反応の重要性があります。

写真や文章、音楽などは、その人の細部を、また親密さという名の関係をその内に宿しています。だからこそ、ブライアン・ウィルソンもアーサー・ラッセルも、人を選ぶこと、人と仕事をするということに拘り、またそこで躓きもしたのです。彼らの音楽は、関係を見つめることによって、また関係に失敗することによってもたらされたものです。

結局のところ、人の全体などというものは存在しないということです。人は関係によって、また変化によって、そして何より部分によって、全体をいつも崩落させています。「1つ」のイメージを形成することなどないのです。ロラン・バルトの、伊藤計劃の抵抗は、そこにあります。そして、その価値を構成するのは何より「記憶」、感情を呼び起こす「記憶」なのです。