現実の人々

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

先日マーガレット・ハウエルのWebサイトを見ていたら、「現実の人々」という言葉を目にしました。英語でなんというのかわかりませんが、翻訳の過程で少し硬くなったかもしれないその表現に、妙な魅力を覚えました。

「現実の人々」という言葉が表現するところに、それほど新鮮な意味はありません。具体的な、生身の人間を知る、というメッセージは目新しいものではなく、日常的なものです。それは、裏を返せば、いかに「現実の人々」を感じる、知ることが難しいかということの証明でもあります。

そして、こうした既存の意味使いにあらためて「現実の」「人々」という言葉の組み合わせを突きつけられるとき、そこに、私たちが普段見ている、接しているのは果たして本当に「現実」なのだろうか? という問いが降りてきます。

最近、「ハーモニー」という小説を読んでいます。これは未来の世界、すべてが安全・安心に管理された世界を描いたSF小説で、そこでは人のスペックはすべて数値化されてサーバに繋がれ管理されています。個人情報は、そのほとんどがパブリックなものとして公開され、拡張現実としてすべての人が見られるようになっています。

拡張現実とは言い得て妙なものです。情報の蓄積と流通によって現実が拡張された結果、「見える」「わかる」現実の領域は確かに拡大し、「現実」として人間が認識できる領域はかつての「情報化」以前の現実に比べて拡張していることは間違いありません。

けれどもこの「拡張」の意味は、もともとの意味における「現実」を押し広げたものはありません。そうではなく、もともとの意味における「現実」の上に被さるレイヤーとして、現実を覆っているにすぎないのです。つまり、現実のレイヤー化です。

レイヤー化された現実では、上位レイヤーの情報が多ければ多いほど、下層レイヤーの情報は認識しづらくなっていきます。そして、レイヤー群の中でもっとも下層に位置するのが、人間が生きる物理レイヤーとしての「現実」なのです。

小説「ハーモニー」のハーモニーという言葉は、「調和」すなわちノイズのない、社会を構成する要素がすべて無駄なくその役割を果たし、1つの巨大な機構を動かしていく、和声のように柔らかな社会主義を意味しています。

しかしここでのハーモニーは、「安全」と「危険」、「社会」と「個人」のバランスを著しく欠いた中での調和であるのにすぎません。バランスを欠いたハーモニーが、バランスを欠いていることに気づくことができないところまで振れてしまえば、それはその世界の中での閉ざされたハーモニーに終始します。それは「予定」調和にすぎません。

小説の中で、科学者はこの「バランスの欠如」に自覚的ですが、それを正そうとはしません。科学者の関心は「どうあるべきか」という倫理的課題ではなく、「どうあるか」という認識的課題だけだからです。そもそもの発端は「どうあるべきか」であったとしても、次第にそのことは忘れ去られ、現状をただ追認し、押し進めて行くだけの「どうあるか」に終始するようになります。

必要なのは「倫理」と「疑問」でしょう。「どうあるべきか」という倫理の観点から、疑問を持つことです。それは現在進んでいる方向に対して「止まる」あるいは「戻る」勇気を持つことです。成り行きの、行きがかりの上での変化は本当の変化ではなく、一時的な保留、つまりペンディングこそが、本当の意味での「変化」のタイミングとなるはずです。