局地的マッピング

局地的地図の膨大な集積が「世界全体の把握」に結びつくことはない。

私たちは、局地に生きている。私たちは局地的に偏在している、といってもよいだろう。そして、「局地に生きている」という事実から生まれる「全体への渇望」は、決して満たされることがない。

マッピングとは「地図を作る」行為、すなわち「世界を理解する」行為である。その方法は「思考」である。マッピングによって作られるのは「局地的」な地図であり、これら地図の切片は、「私」の中で「全体の地図」として統合される。しかし、この統合は常に不完全なものだ。「地図の全体性」は想像上の全体でしかなく、「私」は接点の見いだせない地図の断片を拾い集め、「1つの世界」を夢見ているに過ぎない。

マッピングの成果は、アウトプットによって共有される。Aという人物がアウトプットした地図は、Bという人物にとって「Bの地図」を構築するための部材となる。マッピングによって様々なアウトプット、例えば情報、サービス、食料、芸術、建築等々が生産される。マッピングによるアウトプットは世界を構成する一部となり、次なるマッピングの対象となっていく。世界は、マッピングを軸とするアウトプットとインプットの循環によって成り立っている。

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概念ドリブン

世界は、概念ドリブンとして生成される。概念は世界の反映ではなく、世界そのものである。

人は何かを考える時、契機となる何かを必要とする。思考を開始し、展開させる、そのためのトリガーとなるもの。思考を発動させるための機械、推進力を維持するためのモーター。思考が開始されるための端緒となり、そして継続的に展開し続けるための燃料の投入。その契機、回転し加速するエンジンとしての「概念」。契機としての「概念」によって、「駆動=ドライブ」すること。

プログラミングの考え方に、「イベントドリブン」というものがある。

「イベント駆動型プログラミング(イベントくどうがたプログラミング、英: event-driven programming)は、コンピュータプログラムが起動すると共にイベントを待機し、発生したイベントに従って受動的に処理を行うプログラミングパラダイムのこと。」(Wikipedia)

プログラムの処理が発生する、トリガーとしてのイベント。ボタンのクリックやタップといったイベントの発生を受けて、あらかじめ準備されたプログラムが走り始めること。このときプログラムは、イベントに対して受動的なポジションにある。同ページの定義には、

「起動後に指定のタスクのみを実行して即座に終了するような、直線的な制御フローを基本とするプログラミングパラダイムに対する概念。」(Wikipedia)

ともある。あらかじめ決められた始まりと終わりのある直線的なプログラムではなく、任意に発生するイベントに応じて展開されるプログラム。イベントドリブンにおいて、進行の道行きはダイナミックに変動し、展開はバリエーションを伴うことになる。そしてこの一文でもう1つ重要なことは、イベントドリブンが、プログラミングに関わる1つの「パラダイム」、すなわち世界に対するものの見方、考え方であるということだ。

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名古屋→品川

本から顔を上げると、列車は栄に着いていた。お土産の入った紙袋に本を入れ、しばらく何も考えないでいる。

実家に2泊して帰る日の朝、僕は南側の窓辺に立って、子供の時分にいつも見ていた大通りを見下ろしていた。通りの交通量は多く、しかも多少の勾配があるため、一晩中自動車の走る音が響く。いつもこの通りに面した部屋で寝ていたため、今ではこの音にすっかり慣れてしまい、気にすることなく眠れるようになっていた。音は聞こえるものの、窓から通りの様子を見ることはできない。向こう側の歩道を歩く人や、自転車が見えるばかりである。

駅前の神戸屋で、遅めの朝食を食べる。父は不器用な手つきで、スクランブルエッグをゆっくりとちぎりながら口に運んでいる。店内は満席で、僕と父以外はすべて女性客だった。グループの客が席が空くのを待っていたが、待ちくたびれたのか、しばらくするといなくなっていた。母はこのあとダンスのレッスンということで、それまで僕が土産を買うのに付き合うと話した。父は食事を終えると、そのまま家に帰るそうだ。

デパートから地下鉄へと向かう出入り口で母と別れ、改札を入り、来た時と同じホームに戻ってくる。平日の昼、ホームはどこかひそやかな雰囲気で満ちている。しばらく待つと地下鉄が滑らかに入ってくる。空いたシートを見つけて座り、トートバッグから本を取り出し読み始める。ヴェネツィアの出版人は不本意な結婚をし、安定した生活を送りながらも、人生の何ものも実現できていないと感じ、ただ憔悴しているようだった。

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品川→名古屋

品川から出発した新幹線は、すでに東京駅で大勢の人が乗り込んでいた。

僕は名古屋の実家に帰るため、品川に向かった。品川までは、三軒茶屋、渋谷を経由して、3つの列車を乗り継ぐことになる。山手線で渋谷から品川へ向かうまでの時間はいつも、想像より長く感じられる。僕は「ヴェネツィアの出版人」という本を開き、読み始めた。渋谷を出て2つ3つ駅を過ぎると、次第にシートに空席が目立ち始める。ふと顔を上げると、品川の1つ前、大崎に着いたところだった。乗り過ごさないように本を閉じ、グレーのトートバッグに投げ入れる。

品川駅の売店でお土産を見繕い、クリスマス仕様のフィナンシェを買う。クレジットカードを使える券売機を見つけたが、4桁の暗証番号がわからない(もう何年も忘れたままになっている)。現金を使える券売機を探して、3分後に発車する列車の指定席券を買った。土曜日の午後だったけれど列車は空いていて、隣と後ろのシートは空席になっている。

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「移動」について

新幹線のシートに座って外を流れる景色を眺めていると、もしも新幹線が透明だったなら? と思うことがある。

僕たちはいつも、多かれ少なかれなんらかの移動をして日々を送っている。家と会社の往復、家と学校の往復、旅行で温泉に出かけたり、出張で海外へ行ったり、日曜日に買い物へ出かけたり。移動の方法も、徒歩で、自転車で、自動車で、列車で、飛行機でなど様々だ。人は様々な方法で、様々な場所への移動を行っている。それでは、これらの移動を行っているのは、いったい誰だろう? もちろんそれは「私自身」であるはずだ。けれど、果たして本当に「私」が「私」として移動していると言えるのだろうか?

例えば、私の「身体」はどうだろう。身体がその位置を変えるとき、それは確かに移動であるように見える。A地点からB地点へ、現実として、身体は移動を行っている。それは客観的な事実としての移動である。身体は物理的な存在として、移動を行っている。

例えば、私の「意識」はどうだろう。意識の中で、これから移動する場所について想像する。過去の幼少期の思い出を回想する。本を読み、そこで語られている世界の中へと入り込む。それらは、想像の中で思い描かれる、場所や時間の移動である。

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