親密さの果てに

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

「親密さ」について、引き続き考えています。親密さとは「関係」そのものです。1対1の関係としての親密さもあれば、複数の人が集まることによって生まれる親密さもあります。こうした親密さの中に生まれるのが「感情」です。そして、「明るい部屋」の中でロラン・バルトが書いた「還元しえないもの」すなわち「欲望や嫌悪や郷愁や幸福感」です。

バルトは、次のように述べています。「私は見る、私は感じる、ゆえに、私は気づき、見つめ、考えるのである。」ここでバルトは二度考えています。一度は感じる前に。もう一度は考える前に、です。親密さとは、まず「感じる」ものです。親密さを感じることは、欲求を生みます。また、快楽を生みます。より穏やかな表現に置き換えるなら、やりたいことを生み、心地よさを生むということになります。

欲求は行動の要因です。行動は変化を生み、プロセス、そして結果を生み出します。欲求なしに、何ものも生まれることはありません。快楽は、欲求とは反対に、維持をもたらします。変化を拒み、今の状態でいることを望みます。そして、欲求と快楽は相互にバランスを取りながら、交互に立ち現れては消えていきます。

欲求が暴走し、快楽が失われると、病と呼ばれる状態になります。この時、目の前にあるのは不安です。不安によって煽られ、そに不安を解消しようとさらに欲求が暴走し、新しい不安を呼び込みます。失うことを恐れるあまり、不安が不安を呼ぶスパイラルが発生し、人は疲弊します。その結果、何も与えられることなくただ幸福が失われます。

快楽に執着し、欲求が失われると、停滞が待っています。それもまた病であると言えるでしょう。停滞から抜け出そうとする意思と停滞のままでいたいとする意思が葛藤し、せめぎ合う中で人は疲弊します。ここにもまた、幸福はありません。幸福は、欲求と快楽のバランスの上で成り立っているからです。

快楽も欲求も、まずは感情的なものです。「私は見る、私は感じる、ゆえに、私は気づき、見つめ、考えるのである。」感情の前には「親密さ」があります。そして、感情の後には「幸福」があります。そしてこうしたもろもろの「感情的なもの」は、「一般」化することはできず、あくまでも、いつまでも「個別」的なものに留まるのです。

ロラン・バルトは、一貫して「還元」への抵抗を主張します(「自分の欲望や悲しみを宝物のようにかかえ込んで」)。それは還元されえない「絶対的な個」「あるがまま」のものであるからです。そして、親密さは常にそのようなものとしてあります。親密さについて考えることは、親密さを感じ、親密さの中に留まることです。決して、親密さから離れて語ることではないのです。