マイナーであること

そしてここに、「個としてのマイナー」が現れる。 それは、マイノリティであることを拒否する「マイナー+個X」である。

写真家石黒健治は、「私はマイナーである」と自己規定する。そこに、自身を揶揄する響きはあるだろうか? その答えの如何に関わらず、私は石黒健治がマイナーな写真家であるということに賛同する。もちろん、肯定的に賛同するのだ。

それにしても、「マイナー」とはいったい何だろう? 辞書で「マイナー」を調べると、「より小さい」「より少ない」「より劣る」という意味の形容詞であることがわかる。また、「知名度が低い」という意味もある。マイナーの対義語は「メジャー」である。マイナーは、メジャーに比べて「小さい」「少ない」「劣っている」「知られていない」存在であるということだ。

また、「マイノリティ」「マジョリティ」という言葉がある。これは形容詞である「マイナー」「メジャー」を名詞化した言葉で、それぞれ「少数派」「多数派」という意味がある。マイノリティ、マジョリティは、ある共通の性質をもった人や物の集まりを意味する集合名詞である。マイノリティ、マジョリティは、「誰か1人」を指す言葉ではない。マイナーな人の、メジャーな人の集まり、集団を意味している。

集団を意味する「マイノリティ」に対して、形容詞としての「マイナー」は、それ自体では単数でも複数でもない。マイナーが形容する対象が単数であるか複数であるかによって、マイナーの意味は大きく変わる。石黒健治が自分を「マイナー」と称するとき、その「マイナー」は石黒健治「個人」を指している。「マイナー」が「単数」を形容するとき、それはある固有の態度、姿勢を指し示している。

「マイノリティ」は、すでに集められ、分類され、名付けられた集団である。共通の性質によってあらかじめ分類された「マイノリティ」では、その内部に喚起される感情や思考が「集団としての共通性」を帯びる。例えばマイノリティとしての「誇り」「尊厳」、あるいはマジョリティに対する「妬み」「憎悪」。これらの感情や思考はそれぞれの集団内部で形成され、共有され、集団としての「自己規定」を構成する。

「マイノリティ」としての自己規定からは、「マジョリティ」に対する抵抗が生まれやすい。より多い/強い集団に対する、より少ない/弱い集団からの抵抗。抵抗は「マイノリティ」を誇る感情、そして「マジョリティ」を憎む感情に由来し、自身が所属する集団への執着と、敵対する集団への嫌悪を生む。こうした自己規定は、それぞれのマイノリティに特有の心理を作り上げていく。

そしてここに、「個としてのマイナー」が現れる。それは、マイノリティであることを拒否する「マイナー+個X」である。マイナーは、マイノリティによる「囲い込み」を、形容詞「マイナー」とその対象となる「個X」によって軽やかにすり抜ける。 「マイナー+個X」 は、常に孤立し、未分類であり、名前を持っていない。 マイナーは1人、荒野を、湖の畔を歩く。付き従うものがあったとしても、彼/彼女は真に孤独である。孤独であることは、マイナーとしての個の、もっとも明快な定義である。

マイナーとしての個は、集団を形成しない。それぞれの個が、脈絡もなく、連携もないままに、ただ「集団から逃げる線」を引く。マイナーは連帯しない。マイノリティに属さないマイナーにとって、マイナーのあとにやって来る名詞が複数形になることはない。マイナーが名詞の複数形を形容するとき、それはマイナーな個ではなく、集団としてのマイノリティであることを意味している。

「より小さい」「より少ない」「より劣る」マイナーは、そこに込められた「比較」の意味にも関わらず、「比較ドリブン」を駆動しない。マイナーは、メジャー/マジョリティとの対比に自身の存立を依拠しない。マイナーは比較しないのだ。比較による思考の発動と展開は、それが比較の対象に依拠せざるをえないという点であまりにも脆弱である。依拠には期待が含まれる。そして他者への期待は、それが他者である限り裏切られるのが常なのだ。

ところで、マイナーの英語の綴り「minor」の1字を変え、「miner」とすると、「坑夫」「採掘者」という意味になる。これをカタカナで「マイナー」と綴ると、minerとminorはもはや区別できなくなる。もしかすると石黒健治は、「私は坑夫である」と述べたかったのではないか? 1人の坑夫としての、写真家石黒健治。それが事実とすると、石黒健治の言う「坑夫」とはいったい何者なのだろう?

「坑夫」は地下に潜り、採掘を行う。そして掘り出された鉱石は地上の光に晒され、別の人間の手によって市場へと運ばれていく。「坑夫」は朝、夜が明ける前に地下へ潜り、夜、日が沈んでから地上へと還ってくる。彼らは終日、日の光を見ることがない。D・H・ロレンスの『黙示録論』は、こうした坑夫たちの信仰の描写によって始まる。それは、権力、マジョリティに対する怨念、復讐への情熱に基づく信仰であった。

D・H・ロレンスの「坑夫」はだから、集団であるところのマイノリティの一例である。彼らはキリスト教の「裁きへの欲求」を緩用し、自分たちの置かれた地位を反転し、権力の奪取、価値の転換を図ろうとする。それは未来への希求、期待である。集団としての「坑夫たち」は、共通の境遇、仮想敵の設定、正義への信仰によって、その組織としての堅固さを維持・強化させる。

しかし、ここに「マイナーとしての坑夫」がいる。彼は群を作らない。すなわち、マジョリティもマイノリティも志向しない。個としての「miner」は、決して「miners」になることがない。マイナーとしての個の集合は、集団とはならない。あくまでも個+個+個+個+個+…なのだ。石黒健治を「マイナーな写真家である」と言う時、彼はマイノリティではなく、minersでもない。彼は単に、「1人のマイナー」なのである。

マイナーであるとは、定義から逃れ続けることである。定義とは分類である。分類は、境界線によって集団を画定する。マイノリティ/マジョリティの区画の中で、個は失われてある。個としてのマイナーは、その領地から逃れる者である。そして「~でない」という形でしか、言い表すことのできない者である。「強度」としてのマイナー。「否定による全肯定」としてのマイナー。「逃れ続ける線」としてのマイナーである。

2020/3/12
littlemanbooks.net