価値について①

価値を変化させるということは、自身に対して負荷をかけるということである。価値が変化する状況は、価値が変化しない状況に比べて、自身にかけられる負荷は大きなものになる。

価値という言葉の意味について考えたいと思ったのは、自分がどうしても拘ってしまうこと、こうでなければならないと感じてしまうこと、AではなくBを選ぶべきだと考えてしまうことなど、これら一連の窮屈な発想はいったいどこから来るのだろう? と思ったことがきっかけだった。こうした拘りは、その理由について考えることができるし、その正当性について説明することもできる。自分がそのように考えるに至った背景についても、後付けではあるのかもしれないが、ある程度は説得力のある形で提示できるはずだ。

けれど、それではその自分の拘りというものがどこまで妥当なものなのか。例えばBではなくAを選ぶ人に対して、自分がAではなくBを選ぶ理由を説明し、相手にも自分と同じようにAではなくBを選ぶように説得すること。それがどこまで妥当なものなのかと問われると、自分がこれまで考えてきた価値というものへの信頼は失われ、自分の判断は自分の判断としては適切なものであったとして、だからと言って相手の判断が間違っているとは限らないし、自分の考える価値というものが絶対だなどとはとても考えられない、という思いに駆られてしまう。

私たちは、世界を構成する諸要素について、「価値がある」「価値がない」という言い方をする。そしてある人にとっては価値のあることでも、別のある人にとっては何の価値もないことである、という事実を知っている。人はそれぞれ「価値がある」と思うことを選択し、「価値がない」と思うことを選択しないことで、効率的に行動し、生活している。価値のフィルターは、無駄な諸要素をカットし、有益な諸要素のみをインプットするための手段である。そして、こうした価値を取捨選択する際の基準は人によって異なるものであり、絶対的なものではないことを知っている。

絶対的な価値はないことをわかっていながら、なおそこに拘泥してしまうのは、「価値の選別」が効率的で快適な生活、つまり不愉快な心持ちになることなく、気分よく日常を過ごすための「生きる術」であるからだ。自分にとって価値のあるものだけで周囲を取り囲むこと。例えば人、言葉、考え、仕事、服装や住居、家具、本や音楽、映画といった「価値のある」事物だけで構成される世界を自分の周囲に作り上げることは、自分という存在を確認し、かつ肯定する意味で重要な役割を担っている。そしてこうした快適な環境を守るために、人は日々働き、取捨選択をして、不快な事物が自分のテリトリーに入ってこないように注意している。

私という「存在」は、私にとっての「価値」を体現する様々な諸要素によって作られる私の「世界」そのものである。その人の服装や持っているもの、人間関係、仕事の内容や家の様子などを見れば、またその人の話す言葉を聞いたり、書く文章を読んだりすれば、その人の考える「価値」を知ることができる。そして、自身の考える価値とその人の考える価値とを比べてみて、不要な価値は取り入れずに捨ててしまい、必要な価値は取り入れて自身を構成する価値の一部として利用する。価値のインプットとアウトプットは、このようにして人と人との関係(直接的であれ間接的であれ)の中で交換され、それぞれの人を、また社会を形成していく。

こうした価値というものの形成は、常にその途上にある。つまり、その人にとっての価値は、大小の違いはあれ常に変化に晒されている。私が価値と考える対象は常に「現在の価値」なのであって、それは不断の更新によって常に「過去の価値」となっていく。こうした新陳代謝は時には残酷なものにもなり得るが、新陳代謝が失われればそれは価値の停滞となり、変化しない私として、固定された私として、価値を交換する仕組みの中から疎外されてしまう。だからこそ人は服装や音楽の好みが変わり、仕事の内容が変わり、取り巻く人の構成が変わり、住居が変わり、モノの考え方や主張する内容が変化していく。

それでも、ある人を構成する価値の中には、変わるものと変わらないものとがある。変わる価値は比較的最近手に入れたものであることが多く、変わらない価値は比較的長く手元に置かれているものであることが多い。また、変わる価値はその人にとって重要な価値ではないことが多く、変わらない価値は比較的重要な価値であることが多い。しかしまた、自分にとってあまり重要でない価値については、あえて変化させないことによってそのままに据え置いておくことも多くある。服装を重視しない人にとっては、服装の価値は低いものであるから、一旦決めた服装から大きくは変えず、何年も同じ服装で過ごすことを選ぶ場合もある。

価値を変化させるということは、自身に対して負荷をかけるということである。価値が変化する状況は、価値が変化しない状況に比べて、自身にかけられる負荷は大きなものになる。価値が変わらない状況は負荷が少なく、安定した状態にあるため、多くの人はそのような状態にたどり着くために価値を取捨選択し、自分にとっての快適な環境を作り上げることに終始したいと思う。多くの人は、価値を変化させること、変化させられることを望まない。確立した価値にこそ価値がある、変動する価値には価値がないとする考え方も、ここから生まれてくる。価値の確立していない状況は、価値の確立した状況に比べて、価値の低い状況なのだ。

このような考え方では、流動的な価値は価値が低く、長く継続的に安定した価値こそ、価値としての価値が高いとみなされる。それは、価値のあり方に対する価値の判断である。しかし安定した変化のない価値というものは、価値の死にほかならない。価値には、それを取り巻く外的要因がある。時代や環境、政治、歴史、思想、文化、経済…。価値それ自体は変化しないつもりでも、周囲の状況は常に変化している。状況の変化に呼応しない価値、できない価値は、状況とのギャップによって、それ自体の価値を失う可能性がある。価値とは、外からの刺激や変化に適応し、新たな価値の相貌を見せるものでなければ生き残ることができないものである。

絶えず変化を迫られ、変化しない価値というものが死の宣告を受けるという条件下で、価値は絶対的な価値であり続けることはできない。価値は、周囲の状況やその他の価値との相対的な関係のもとで、その価値の価値を判断され続ける。ある時、価値Aは価値Bに比べて高い価値を持っていた。しかしそれからしばらくすると、価値Aは価値Bによって逆転され、価値Bは価値Aよりも高い価値を持つものとなっていた。「価値」という言葉は、個々の価値「それ自体」を意味すると同時に、複数の価値を比較した場合の「相対的な価値」を意味する場合にも用いられる。そしてこの相対的な価値もまた、周囲の状況によって常に変化を促されている。

2020/3/31
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