「棚」の不思議

棚は、本という商品を流通させる際の基準となるコードであり、共通化されたルールとして機能する。

「売りやすい商品」と「売りにくい商品」というものがある。本の場合、売りやすい商品というのは、「棚」という分類に則っている商品のことである。棚は、本という商品を流通させる際の基準となるコードであり、共通化されたルールとして機能する。本という商品は、 一般的に 「出版社→取次→書店」というルートを通って読者のもとへ届けられる。出版社はその商品がどの棚に置かれるべきかということから、企画の検討をスタートさせる。棚という目的地から逆算して企画された本は取次を介して書店に到着し、予定された棚に並べられる。

どの棚に置かれるべきかという情報は、棚分類、書名、出版社名など、様々な情報を使って出版社から取次、書店へと伝えられていく。取次から送られてきた段ボール箱を開けた書店員が本を取り出し、出版社が意図していた棚へと本が置かれ、読者が棚からその本を購入すれば、無事、目標達成となる。こうして本は、出版社が考える「適切な棚」へと置かれ、「適切な読者」の手に渡ることになる。そして、書店員が出版社の目論見とは異なる棚に本を置いた場合、それは出版社にとって伝言ゲームに失敗したことを意味する。

出版社は、常に「売れる商品」を作りたいと思っている。売れる商品を作るためには、その本に関心を持つであろう読者に手に取ってもらわなければならない。ビジネス書に関心のある読者は、書店のビジネス棚に来る。文芸書に関心のある読者は、文芸の棚に来る。適切な分類の棚に収まることで、その本を買ってくれる読者と出会うチャンスは高まってくる。だから出版社にとって、売りやすい商品とは「どの棚に置けばよいのかが明確な商品」である、ということになる。

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写真集「HOME」のこと②

中村さんは写真集を、ひとつの世界として見立てていた。

写真集の編集作業は、とても順調に進んでいった。写真は、必ず入れたい第1候補と、入れるべきかどうか迷う第2候補、入れるべきでないと考える第3候補の3つの山に分けてセレクトしていった。僕と中村さんで、意見が異なるということはほぼなかったように思う。とはいえ、入れたいけれども、入れるとバランスが崩れてしまうといった写真が何枚かあった。あえてバランスを崩すという選択肢もあった中で、最終的には入れない方向で話がまとまった。中村さんの意志により、今回の写真集は、余計なものをそぎ落としていくという方向で走り続けた。

ある時、僕は「中村さんにとって写真集とはどのようなものですか?」といった趣旨の質問をした。中村さんはそこで、自分が好きな写真集を僕に見せて、1枚1枚の写真にじっくり向き合える写真集がよい、と答えてくれた。カタログ的に、写真がぎっしりと詰め込まれたものではなく、1枚1枚を大切に見てもらえる写真集。そのために、見開きの片ページを、原則白ページにすることにした。

また、中村さんは写真集を、ひとつの世界として見立てていた。ページを開くと、その世界の中に入っていけるもの。ふとまたその世界を訪れようと思った時、本を手に取りページをめくれば、再びその世界を訪れることができるようなもの。そのためには、写真の並びはもちろんのこと、写真に写り込んでいる被写体を照らす光やその色、また闇の中に把握される見えないものの存在など。すべての要素が、写真集の世界を構築するために用いられるべきだった。

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写真集「HOME」のこと①

覚えているのはたいがい、飲食店で飲み食いしているシーンだったりする。

写真家の中村治さんにはじめて会ったのは、当時中村さんが住んでいた、浅草橋だったと思う。養蜂家の鈴木一さんの紹介で、浅草橋にある小さくて人気のある立ち飲み屋でお酒を飲み、 おいしい 焼き鳥を食べた。その時、僕が出版を始めようとしていること、そして中村さんの写真集をそこから出すといいという話を、鈴木さんが中村さんにしていたことを覚えている。

僕はといえば、1人で出版を始めようという気持ちは持っていたものの、はじめて会った写真家の、しかも写真集というかなりお金がかかりそうで、売れなさそうなジャンルの本を出すというのはなかなか勇気のいることで、その場はやるともやらないともいえない、曖昧な気分で焼き鳥を頬張っていた。

その後も、中村さんと鈴木さんと3人で会う機会が幾度かあって、覚えているのはたいがい、飲食店で飲み食いしているシーンだったりする。月島でもんじゃの店に入って高いメニューばかり頼んだり、もう1軒行こうと考えてうろついた挙句、結局ファミレスしか見つからず、鈴木さんが帰らなければならない時間までひたすら話し続けたり、といった具合だ。

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