表現と搾取②

表現は、搾取の渦中に身を置きながら、その意味を反転させることができる。それは、「搾取されること」から「与えること」への転換である。

写す、描く、奏でる、書く、演じる。これらはすべて、「搾取でない」と言えるだろうか?

表現は、写すことによって、描くことによって、奏でることによって、書くことによって、演じることによって、他者からの搾取を行っている。それは、表現を実現するために必要となる、顕在的/潜在的なインプットである。そしてここで言う「他者」とは、人に限ることなく、社会や自然、動物、モノ、出来事であったりする。つまりそれは、「世界」を構成している諸要素である。

表現は搾取によって生まれるが、表現はそれ自体もまた搾取の対象となる。搾取されたくないのであれば、誰にも見られることのない場所に隠しておけばよい。しかし、表現をいったん外に出したなら、その時点から、表現は奪われる対象となる。表現Xを、見る、聴く、読む、考える、語る…。表現が搾取の対象となるのは、文字通りそれが「表に現れる」ことによってである。

搾取し、搾取されるという相互扶助の関係は、表現に課せられた存立要件である。 奪い/奪われるこの関係は、恒常的に表現を産み続ける1つの循環器を構成する。表現は循環器の中に現れ、奪われ、消えていく。循環器の中で、表現はありうるすべての可能性を掘り起こされ、その結果消耗し、最後には枯渇する。これ以上採掘するものがないと判断された表現は、循環器の外に放り出され、忘却される。

表現は、見られること、語られること、売買されることによって、その身を削り取られていく。搾取とは暴力的なものだ。評価、研究、引用、解釈、解説、解答、価格、売買、複製、尊敬、影響、歴史、物語といった言葉が、搾取する/搾取される循環装置の、暴力的な性質を言い表している。表現を取り巻く言説、市場、経験はことごとく、搾取という暴力装置の当事者、共犯者である。

奪う者は、迅速、かつ冷徹に判断し、評価を確定し、最後には忘れたいと考えている。そして、別の、新しい表現、新しい場所での採掘を始めたいと願っている。こうした「もっと、もっと」という欲求の下では、速度と新しさが信仰の対象となる。こうした欲求は、循環器の「処理」速度を加速させる。処理とは途切れることのない「消費」であり、「わかること」による価値の剥奪である。

表現は、搾取という暴力装置の中でしか存在することができない。搾取は、表現の自己規定そのものであるからだ。しかし表現は、循環器の内部で搾取の機能を担いながら、その意志を転換させることができる。それは、「搾取されること」から「与えること」への置き換えである。装置の中での役割は変わらない。しかしこの転換により、表現の立ち位置は「被害者」から「提供者」へと変化する。

搾取する/搾取される関係にあった「対立する意志」「否定する意志」は、与える/与えられる関係において、対立をすり抜ける「肯定の意志」へと置き換わっている。それは、受動的な意志から能動的な意志への転換でもある。この肯定の意志は、表現に、何十年、何百年、何千年と奪われながらも尽きることのない力をもたらしてくれる。「与える者」だけが、 何人もの鑑賞者、評論家、表現者によって語られ、参照され、自身の表現の材とされてもなお、失われることなく産み続けることができる。

「与える」表現者は、搾取というプロセスの内側にとどまりながら、自身の肉を進んで提供する。彼らはつまり、尽きることのない可能性を産出するためのサクリファイス(犠牲)なのだ。与える表現者に、憎悪や嫉妬、疑惑、諦念は皆無である。そして実のところ、与える表現者は、与えることによって自身もまた与えられるのだ。与える者は与えられ、与えない者(奪われるだけの者)は与えられない。このシンプルな図式は、表現と搾取についての倫理モデルである。

奪わない表現は存在しない。そして、奪われない表現もまた存在しない。奪われるAと奪うB、 与えるAと与えられるBは、常に同時に存在する。奪われるAが枯渇すると、奪うBは別の奪われるCを求めて去っていく。しかし枯渇することのない与えるAがある時、与えるAは、与えられるBに自身を与え続ける。与えるAは、自身による表現と、与えられるBによる表現を生産し続け、止むことがない。

2020/3/25
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