デジタルで動物な

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

ドラマ「カルテット」の中でひときわ異質な存在が、吉岡里帆演じる有朱(アリス)です。彼女の行動は「お金」「男」「地位」に対して利己的であり、自分の得に対しては反射的に行動に移す瞬発力を持っています。その「反応」の速度は、実際の行動に至るまでに「通常であれば必要とするはずのプロセス」を一気に省略し、ショートカットすることによって実現されています。

通常人は、ある目的を達成しようと行動に移す前に、様々な判断を行います。例えば倫理的な判断、社会的な判断、利己的な判断などです。アリスはこれらの判断のほとんどすべてを不要なものとして削ぎ落とし、「利己的な判断」のみを残し最小化することによって、その行動の速度を上げています。

例えば「ヴァイオリンをメリカリで売る」というアイデアがもたらされれば、直裁的に「ヴァイオリンを盗む」という行動を実行に移します。また「株で損をする」という結果がもたらされれば、その直後、すぐ側にいた職場の店主を誘惑しお金を搾り取るという行動に転換します。それらはいわば「反射」に近いものであり、その反射は「ーを+に」「0を+に」変換することを目的としています。

彼女のこうした行動は、倫理や法律、体面、空気といった人間社会を構成するルールを無視することによって成立するものです。アリスには、自分が社会の一員であるという認識はありません。社会の一員としての個ではなく、食うか食われるかという弱肉強食の自然界に生きる個として、自分を存立させています。その意味で、彼女は「動物的」なのです。

動物は、自分の生命を維持するために必要かどうか? という判断に基づいて自身の行動を決定します。獲物がかわいそうとか、倫理的によくないのではないかとか、空気を読んでここはやめておこうなどといった「余計な判断」や「配慮」「忖度」は介在させません。シンプルに直接的であり、無駄な逡巡や感傷を含まないのが「動物的」な態度です。

吉岡里帆はこの役を演じるにあたり、「目が笑っていない」という条件を与えられました。それは、他の登場人物に対して一切の共感をしない、ということを意味します。社会のなかで、人は他の人の行動や感情を見て、それを理解することによって「共感」し、様々な「忖度」の中で組織の一員としての「社会性」を身につけます。

「目が笑っていない」吉岡里帆はこうした共感を切り捨て、自分の得になるか? という問いに対してYesかNoのどちらかによって答えを出します。それは「人間的」ならぬ「動物的」な姿勢ですが、かといってそれが人間から遠く離れたものかといえば、そうともいえません。人間独自の功利主義、「自分だけが得をすればよい」という考え方を極限まで肥大化させたのがアリスであると言えるからです。

動物が自然の中で生きているように、また人間が社会の中で生きているようには、彼女は「〜の中で」を生きてはいません。それゆえ彼女は孤独ですが、その孤独は自分が「生き残るため」の孤独です。彼女の中に「感情」はなく、あるのは「反応」だけです。そしてその反応は「自分にとって損か得か」という、ゼロイチの反応です。

彼女の「ゼロイチ」の反応、選択は、「動物的」なそれをさらに簡略化しているという点で「デジタル的」ですらあります。動物にも見て取れる感情の揺らぎは、彼女においては単純化され、喜怒哀楽の「喜怒」にまでデフォルメされています。そこには「哀楽」も存在しないようです。また、デフォルメされた「喜」の笑い声に心は入っていません。

感情のデフォルメは、すべての情報を0と1に還元して保存、流通させるデジタル的な世界観を思い起こさせます。シンプルでわかりやすく、迷うことがない情報。揺らぎのない、「曖昧さ」のない情報です。吉岡里帆は、「デジタル的」で「動物的」です。いわば、過度な生存本能の追求、「デジタルアニマリズム」の体現です。

吉岡里帆の存在は、社会の中では「弱者」の立場に位置しながら、なんとなく社会から離れることもできず、弱者同士肩を寄り添わせて「仲間」を作って安心している、カルテットのメンバーへのアンチテーゼです。吉岡里帆がカルテットの4人に対して与える執拗な打撃は、彼女が彼らに対して抱く、本能的な敵意に根ざしています。

松たか子、満島ひかり、松田龍平、高橋一生によるカルテットの4人は、それぞれの個性やこだわり、夢や理想を捨てきることができないでいます。彼らが大事にしているそれらの「らしさ」は、社会的には役に立たない、欠点とされる類のものです。ドラマにおいて、それは「何かが欠けている人たち」、「ドーナツの穴」として表現されます。

しかし彼らのそうした「欠落」は、細かな機微を構成しています。繊細で、壊れやすく、真実と嘘が混濁している。そのような複雑な感情の揺らぎが、彼らを社会から遠ざけ、かつ彼らを互いに寄り添わせる理由となっています。そしてこうした揺らぎこそが、人間という存在の面白さであり、「人間らしい」部分なのだというメッセージがこのドラマの主題であると思います。

社会の中心に位置し、確固とした地位を得るためには、こうした機微を捨て去り、割り切り、「欲」を追求する功利主義に走る必要があります。そして、こうした功利主義を極めた先にいるのが吉岡里帆なのです。その点で、「デジタルで動物な」吉岡里穂は、人間のある特徴を極限まで先鋭化させた存在であると言えます。彼女は、人間社会で生き残るために機能を絞り込み、特化させた機械(マシーン)なのです。

それに対して、カルテットのメンバーは「社会」未満の存在です。社会にいながら、社会の中心に位置するには欠けていることの多すぎる存在。そんな彼らを見て吉岡里帆がイラつくのは、当然と言えば当然なのだと思います。そして、社会で生き抜くために社会を超え出てしまった者と、社会で生き抜くには不足が多く社会未満に甘んじている者とが、社会を挟んで対峙する戦闘の行方が、このドラマの1つの見どころを構成しています。

吉岡里帆は去り際に(また再登場するのですが)、「不思議の国につれてっちゃうぞー」「ありすでした! じゃあね! ばいばい!」という捨て台詞を残します。あからさまなフィクション、「不思議の国」という名の「嘘の世界」がいつしか「現実の世界」に裏返っているかもしれないという恐怖を感じさせる、印象深い退場の方法です。