細部について

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

ロラン・バルトの「明るい部屋」に、「プンクトゥム」という概念が出てきます。これはラテン語で「点」「突き刺すもの」という意味で、「明るい部屋」では一般化、法則化することのできない、極めて個人的な感情の働きを意味しています。

「プンクトゥム」は、バルトがある特定の写真を見るとき、写真から与えられる感情の動きです。このプンクトゥムについて、バルトは「補足的」であり「部分的」であると述べています。写真の中にプンクトゥムとなる要素があるとき、それはその写真の中心的な主題ではありません(補足的)。そして、全体ではなくあくまで細部なのです(部分的)。

テキストについて、中心/補足、全体/細部という対立項で捉えるとき、前者はあらすじや要約、後者は部分や抜粋を意味します。そしてプンクトゥムの考え方と同じく、私にとって意味があるのは中心ではなく補足的事柄、全体ではなく細部であるように思うのです。

例えば「明るい部屋」において、中心と全体はひどく捉えづらい書物となってます。話はあちこちに飛び、ちょうど真ん中あたりで「前言撤回」されます。科学と個人的な感想の間を行き交い、バルト自身が迷っている風を醸し出しています。安易な要約を許さず、全体の把握を困難にするような迂回や逡巡に満ちています。

例えば小説「ハーモニー」において、全体の物語の「筋」は、それほど目新しいものではありません。管理社会、ディストピア、少女の自殺、拡張現実。SFをほとんど読んだことのない私でも、そこにあるのはありふれた素材であることがわかります。かんたんな要約でその趣旨を「わかってしまう」。そのような全体なのです。

そして、複雑にすぎる中心/全体も、単純にすぎる中心/全体も、どちらも「明るい部屋」「ハーモニー」の価値を示すものではありません。「明るい部屋」「ハーモニー」の価値を示すのはあくまでも「補足的な細部」なのです。

補足的な細部は、全体に奉仕することをしません。それは全体を見たときには気づかれることのない細かなディテールであり、要約やあらすじからは真っ先に切り落とされるべき「枝葉末節」だからです。しかし、重要なのは「枝」であり、「幹」ではありません。それも太い枝ではなく、細い枝、そしてその先にある1枚1枚の「葉」です。

細部の和は、果たして全体を構成するのかどうか? 量的にはYesですが、質的にはNoです。量的な和は全体を構成し、密集した場所には中心を見いだすことができます。しかし質的な観点では、それぞれの細部が「質的に異なる」ものである以上、単純な数量の和としてはカウントすることができないのです。

「明るい部屋」も「ハーモニー」も、細部を読むべき書物です。それは細部が全体を構成しないから、細部が全体に奉仕しないから、そして細部が全体とは無関係に増殖し、展開しうる力能を持っているからです。

どこまでも広げる/広がることのできる細部は、その延長線上に全体を構成せず、別の細部との結合と新しい形の生成を生み出します。細部は、静的で固定された全体/中心(あらすじや要約が変化することはありますか?)と異なり動的で、いつまでもどこまでも変化していくことができます。

神は細部に宿る、という格言は真実でしょう。細部に宿る神が全体に宿ることはありません。細部の神がいくら積み上がっても、全体を構成することはないのです。全体を構成することなく、中心となることなく、補足的な細部として変化し続けるもの。それこそが、神の本質なのだと思います。