関係性のフェティシズム

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

親密さとは、なめらかな愛を伴うものです。そして、ちくちくとした居心地の悪さを伴うものです。人は人との関係の中で、人に直接接するインターフェースの部分と、人に見せることなく内に隠し持つシステムの部分とに分けられます。人と人は歯車のように噛み合いますが、それは両者のインターフェースが接しあう歯の噛み合わせによって、その動力がどこまで力強いものであるかが決まります。

噛み合う歯は、そのインターフェースがどこまで内側に食い込むものであるか、内部に肉薄するものであるかを表しています。その歯の浸透の度合いによって、「関係」の深さが決まるのです。インターフェースとシステムは地続きですが、浅い溝(みぞ)しか持っていない歯車の噛み合わせは緩いものです。それはシステムの働きを伝えるにはあまりにも不十分であり、ちょっとした衝動でかんたんに外れてしまう機構にすぎません。

意気投合、という歯車同士の完全な一致というものは、本当に存在するでしょうか? 長い付き合い、共通の嗜好、利害の一致、などにより強固な関係を持つかのように見える関係があったとして、それがどこまでインターフェースを超えたシステムにまで浸透するものであるかを確認することは不可能です。人と人とをまとめる強固なつながりが感じられたところで、それは表面的なイメージに過ぎないことが多いのです。

これは、ネガティブな話ではありません。むしろこのちくちくとした居心地の悪さ、一致しきれない残滓の残留、消化不良の感触こそが、関係を結ぶ上でのもっとも大切な手触りなのではないかと思うのです。こうした手触り、質感のようなものをイメージの一致、すなわち「共感」によって見えなくするよりも、ざらついた質感から目を背けず、きちんと認識することこそが、人との関係を楽しむための秘訣なのではないかと思います。

仮にインターフェースが一切の摩擦なしに噛み合っているように感じられたとしても、実際に駆動するシステムの回転数には、多かれ少なかれの齟齬があるはずです。こうした齟齬は、小さい程よい、大きい程よくないといった価値によって判断されるものではなく、その齟齬の中にこそ、またその齟齬の質の中にこそ、その関係に固有の本質が内在しているのではないかと思います。それは細部であり、関係の全体から見れば捕捉的なものです。

こうした関係性の機微に目を向け、意識的であること、機微を観察することは、関係性に対するフェティシズムを構成します。それは、関係は抽象的な観念ではなく、吐く息や握る手に感じる熱と同じように、具体的に触れることのできるモノであるとする考え方です。こうした「具体的な関係」は、現実の「誰か」を実感することのできる唯一の手段でもあります。それは、雰囲気やイメージによって形作られるデフォルメからは得られない「手ごたえ」です。

そこでは、秘密や嘘もまた、こうした機微を構成する重要な要素になります。正直さ、真実をいうこと、素のままの自分でいられること、自然、といった観念は、それが本当に正直で、真実で、素で、自然であるかを証明することはできません。それは証明することのできない、自己申告にすぎません。真実や本当は、その関係を信じるための重要な根拠にはならず、立場として、嘘や秘密と同列の一要素に過ぎません。

そして、こうした「嘘か本当かわからない」グレーな状況こそ、わかりのいい白か黒かの二者択一の世界観から抜け出るための条件であると言えます。白か黒かの世界観は極と極、1か0か、敵か味方か、愛するか殺すかの世界観です。それは「本当」という名の大義名分のもと、一方を選択し、一方を排除します。そして残った一方もまた、白か黒かに区分され排除されることで、半分の半分の半分へと削られていきます。

インターフェースとインターフェースの間には、距離があります。そしてシステムとシステムの間には、より多くの距離があります。そして、互いのシステムをインターフェースを通さず直に見ることはできません。インターフェースの手触りを通して、推測することしかできないのです。そして、その手触りこそが、唯一感じることのできる、見ることのできる「真実」です。その真実は、唯一の現実であり、現実のすべてです。そこに嘘があるとして、その嘘もまた真実ということです。

噛み合う歯車の進行は、時間とともにその形を変え、摩耗して浅いものとなったり、あるいはより深くまで歯が浸透することもあります。互いに離れ離れになったり、再び出会ったりすることもあります。それらはすべてかけがえのない瞬間を構成しますが、必ずしも変えの効かないものとは限りません。むしろ、「それでなければならない」ということなど一切なく、偶然「出会った」それだけの理由で、たまたまそこにいるだけなのです。

そしてこうした「たまたま」こそ、「〜でなければならない」という枷から逃れ、「運命」的な物言いから一歩外へ出るための施策でもあります。必然とは偶然から「作り上げられる」ものであり、運命とはたまたまから抽出された「ストーリー」です。それでも人はこうした「ストーリー」を紡ぐことによって、次の偶然を呼び込むための支えとします。それは音のしない、感触のない滑らかな運行ではなく、ざらついた、ギシギシという音を立てる厄介で面倒な進行なのだと思います。