テレワークという「日常」

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

テレワークが日常になるにつれ、仕事上でのコミュニケーションのあり方が大きく変化したことを実感します。1つには、電話をしなくなったこと。電話で伝えられる要件のほとんどは、メールもしくは次に触れるチャットツールでも伝達可能なものです。また、メールやチャットツールで伝えにくい細かな機微を伴うものは、対面で行う方が適切でしょう。こうした、メールと対面の間でもともと宙に浮いていた電話という方法は、メールと対面の、より適切などちらかへと割り振られ、消滅しかけているように思います。

2つめは、メールの代わりに、SlackやChatWorkといったチャットツールが利用されつつあることです。従来のメールが情報の「伝達」を目的とするものだったのに対し、これらのツールは情報の「共有」と「参照」を目的とするところに特徴があります。また、メールが「個人」単位での情報のやり取りを基本としていたのに対し、これらのツールは「グループ」単位での情報のやり取りを中心とする方向にシフトしています。

3つめは、オンライン会議ツールの利用です。コロナ禍により人と会う機会が限られたことで、Zoom等でのビデオ映像による打ち合わせや会議が一般的なものとなりました。その結果、地理的、時間的な制約が解かれ、単なる代替えではない、新しい打ち合わせ、会議の形態が確立し始めているように思います。例えば私は、山口に住んでいる著者との打ち合わせを朝の8時に30分〜1時間程度、週に3回ほど行なっています。これは打ち合わせという方法に対する、新しいアップデートの枠組みを提案するものです。

こうしたコミュニケーションの変化の特徴は、その個と個をつなぐあり方が、従来に比べてより薄く、軽く、広いものとなっていることです。より濃く、より狭いコミュニケーションの質を持つ過去のメディア、電話やメール、リアルな打ち合わせ、会議は消え、代わりにチャットツールやオンライン会議ツールといった、場所や時間、個人を制約しないツールが普及しつつあります。それはコミュニケーションの便利さ、簡単さを提供する代わりに、コミュニケーションの重さ、困難さを奪っていきます。

またコミュニケーションの目的が、これまで以上に「情報」を中心とするものに変化しています。新たに普及しつつあるこれらのツールと比較すると、電話やリアルの打ち合わせはもちろん、メールでさえも、伝えるべき「情報」以外の非合理的な要素、例えば「挨拶」や「礼儀」といった社会関係的な要素を多く含むものであったことがわかります。これら、生産性の観点からは「余剰」と考えられる要素を捨象し、伝えるべき「情報」をどれだけ効率的に伝達し、共有できるかということが重視されるようになっています。

そして、こうしたいよいよ薄く、軽く、広くなるコミュニケーションの質の中で、むしろそれ故にこそ、「情報」へは容易に還元されない、コミュニケーションの本当の意味での質(クオリティ)が必要とされ始めているように思います。それは、合理性、効率、生産性へと還元され難い、個人の個としての「質」です。つまり、コミュニケーションが薄く蔓延する環境下においては、反対に、個人の個としての強さ、濃さ、狭さ。そして、個と個の関係性の強さ、濃さ、狭さが重要になるのです。

おそらく「個」性が不十分な個は、新しく現れた薄くて軽いメディアに流され、飲み込まれてしまうでしょう。そして、このような状況下でなお自身を維持することのできる強度を持つ個こそが、これまで以上に価値を持ち、必要とされる状況が生まれつつあるのではないかと思います。そして、もはやイレギュラーな方法となるかもしれない「直接会って話す」ことの価値もまた、その希少さ故に高いものとなり、「直接会って話す」価値のある個人かどうかの判定が行われることになるのではないでしょうか。

「親密さ」について

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

最近、「親密さ」ということについて考えています。誰かと会って話をするとき、ときおり感じるこの「親密さ」は何だろう? と思うことがあります。それは、最近ある人に出会ったことでより強く思うようになったのですが、「親密さ」という言葉ではないにしてもそれに近い事柄は、これまでいつも頭に片隅にあったように思います。

普段あまり使わない「親密さ」という言葉は、例えば心地よさ、なつかしさ、やさしさ、楽しさ、興味深さなどの言葉で置き換えることができるかもしれません。けれども「親密さ」という抽象的な言葉は、指し示してほしい「この」感覚を表現するにはどうも言葉足らずで、表現しきれない何かを残しています。

英語でこの感覚に近い言葉はないかと調べてみたのですが、日本語と同様しっくりくるものは見つからず、近いと思われるのは「affection」でしょうか。この「affection」という言葉は、ジル・ドゥルーズの本などを読んでいると「情動」という言葉で訳されていて、感情の動きやそれが作用する現象全般を言い表しているようです。

本来言葉には、具体的な対象を示すものと抽象的な対象を示すもの、2つの役割の極があって、抽象的な対象を示す言葉ほど、言葉自身がその無力さを自覚して、ある意味、私たち言葉を使う側にその責任を委ねていることが多いように思います。例えば「愛」「美」「知」「真」「正義」「自由」などは、その最たるものではないでしょうか。

こうした機能不全とともにある「親密さ」という言葉に、私は英語の「affection」に近い、「感情の動き」といったニュアンスを見たいと思っています。親密さの中には感情があり、その感情の波、動きによって親密さが生まれ、そして変化し、消えていくように感じられます。

その感情は、喜怒哀楽のような明確に分類されたものばかりではなく、もっと微細な、ささやかな振動のようなものを含みます。むしろ、そのような微細な振動であることの方が多いはずだと思います。そして、こうした「微細な振動」ということを考える度、私はミツバチの羽の細かな振動を思い浮かべます。

ミツバチの羽の振動、それは主に音によって聞き分けることのできる親密さ、感情の表現です。羽の振動は空気の震えとなり、その震えが私たちの耳まで届き、彼らの感情のバイブレーションを伝えてくれます。天気がよく蜜がふんだんにあるときは楽し気で穏やかな感情が聞こえ、天気が悪く蜜があまりないときは苛立ちの感情が聞こえます。

ここで、感情とは明確に振動のことであり、その振動の中に入り込むことによって、あらゆる感情をその内に含む「親密さ」が形成されます。親密さとは、感情のやり取りによって形作られる関係性そのものです。その関係性の中には、一見親密さとは縁遠いと思われるような感情、怒りや悲しみ、寂しさが含まれます。

こうした、ある種のネガティブとされる感情は、しかし、決して避けて通るべきものであるとは思いません。こうした一般にネガティブとされる感情もまた、情動の一部であり、そのグラデーションを形成する振動の一部として肯定されるべきものです。怒りや悲しみを除いたところに、「親密さ」は存在しえないはずです。

小沢健二と「親密さ」について

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

先日、小沢健二が書いていた、筒美京平との思い出についての文章を読みました。内容は実際の文章に直接当たってもらえればと思うので詳しくは触れませんが、それはとても小沢健二らしい「親密さ」を感じさせる文章で、こうした文章を書ける才というものに、あらためて興味を持ちました。

最近、「親密さ」という言葉をキーワードに、いろいろな考えを巡らせてみたいと思っています。ちょっとまだ考えはまとまっていないのですが、人と人との関係における親密さ、目に見ることのできない空気感や距離感、感覚の交換や感情の伝達、などに興味があるのです。

親密さを構成するのは、いうまでもなく人と人です。また、人と動物、人と植物など、親密さは人に限らず感じ、作り出すことができると思います。ある意味ありふれたものであるはずの親密さは、それでも、今の日本の社会ではなかなか貴重なものになっているのではないかと思います。

私が考えているのは、主に、こうした親密さから何を生み出すことができるか? ということです。それは何か目的を立てるということとはちょっと違って、親密さそのものが目的であり、そこから滑らかに生まれてくる雰囲気、感情、変化、を大事にしたいということです。

こうした親密さから生み出されるものは、それ自体すでに1つのアウトプットとなっています。そして、そのアウトプットを固定し残るものにすることにも、もちろん関心があります。私の場合は、それが主に本だったりするわけです。

けれど、こうした本という「形に残るアウトプット」は、それ自体を目的とするものではないし、そうはしたくないとも思っています。それは結果であって、目的ではない。目的という方向のある意識とは別のところに、親密さという方向のない意識があって、それを大事にしていきたい、ということを思います。

ところで小沢健二の文章は、とても商業的でない文章だな、ということを思います。ライブのグッズや彼のWebページに載っている文書を読むと、その独特さ、拙さ、個人的で、感情的で、取り止めがなく、そして何より親密な雰囲気に、この文章は商品にはならない、ということを強く感じるのです。

この商品的でないということに、とても魅力を感じます。商品的でないということは、無理に人に伝えようと思っていないということを意味します。人は無理に人に伝えようと、親密さから離れた文章を書きがちです。なかなか難しい試みですが、私も小沢健二のように、親密な文章を書きたいと思っています。

住宅地にて

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

先日、1年ぶりに会った友人と、戸越銀座から三軒茶屋まで話をしながら歩きました。品川区、目黒区、世田谷区という異なる区をまたいで歩いていると、景色のちょっとした違いが目に映り、またよく似た景色に出会うことで、以前ここを歩いたことがあるのではないかという思い違いをしたりします。

ひたすら歩き続ける中、1つの話を掘り下げるでもなく、ある話題からある話題へと、飛び石を乗り移るような感覚で、尽きない話が続いていきます。住宅街の平坦な道を歩き続けること。そして横へとスライドし続ける話題のリズムが合間って、ある種のトランスに似た感覚がそこにはあるようでした。

このようなことがあると、私たちの身体や意識の上で、時間と空間は本当にパラレルなのだと実感します。そしてこうした時間と空間の感覚の一致は、私と異なる他者とのギアの噛み合いによって生まれるのだということを実感できます。

空間を移動すること、そして時間を過ごすこと。空間を移動している時と、移動を中断し止まっている時とでは、時間や他者に対する感覚も変化します。空間、時間、他者との関係。それら相互の関係とその変化は、価値のヒエラルキーとは無縁に生まれ、また消えていくもののように思います。

その中で、ワークライフバランスについての話が出ました。私は、ワークとライフを1つの事象の異なる側面として捉えたいと思っています。ワークとライフは、2つに分離しどちらかを選ばなければならないものではなく、「私という現象」の「切り取り方の違い」にすぎないと思います。

分裂ではなく、連続性を見ること。連続は、とどまることなく続いていく変化を意味します。それは1を構成することなく、てんでばらばらに、あちこちで無数のアウトプットの火花を散らしながら生まれ、また消えていくのではないでしょうか。それは統一体ではなく、連続体なのです。

統一体ではなく、連続体として生きること。それは、あるときは移動し、あるときはとどまり、その中で出会うさまざまな関係の中に自身を浸し、関係が変化するただ中に揉まれるあり方を意味しているのだと思います。

「終わらせること」のリスク

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

「終わらせること」そしてそこから「始めること」は、本という媒体の1つの役割です。そして、本はその特質ゆえに、「終わらせること」のリスクを常に孕んでいます。それはつまり、「残すことのリスク」とも言い換えることのできるものです。

本がいかに「動的な展開」を内包させたとしても、それが「終わり」のメディアであることに変わりはありません。それは「終わり」を構成し、固定されたものとして人の前に現れます。人の、動き、変化し続け、止まることを知らない活動は、それが本として表現された瞬間、一時的にであれ「終わった」もの、「終わらされた」ものとなるのです。

固定された「本」という形態は、その形態のまま「残る」ことになり、そのままの姿で「露出」を続けていきます。それは「動き、変化し続け、止まることを知らない」活動体にとっては本来のあり方を反映していない媒体であって、本がその姿を晒し続けることは、自身とその活動にとってのリスクに他ならないのです。

しかしまた、本という媒体の役割はそのリスクを引き受けるところにこそあります。そしてそのリスクを引き受けることによって、本は次なる運動への開始の起点となります。本は、あるアクションの終わりであり、始まりでもあります。

同時に、常に変化し、展開を続けている人にとって、本はその停止、中断にほかならないこともまた事実です。アーサー・ラッセルやブライアン・ウィルソンといった「完成させることのできなかった作家たち」のことを考えると、彼らの「完成させることができない」という本性の中に、彼らの天才性を見いだすことができます。

たゆたう現実の中で、その現実の瞬間瞬間を確実に捉えていく人たちにとって、本(やレコード、CD)という不変のアウトプットは、流れ行く時間からはあまりにも距離のある存在として映っていたのかもしれません。

それゆえ本を作るという作業は、こうした「終わらせること」のリスクを知った上でそのリスクに対峙し、「本当に終わらせてよいのか?」「本当に終わらせることは可能なのか?」と自問自答をし続ける、そのような試みとなるはずです。