「結論」と「プロセス」

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

物事には、「結論」と「プロセス」があると思っています。「結論」は目的であり、「プロセス」は結論を導き出すための方法です。それでは、目的としての「結論」が得られれば、方法としての「プロセス」はもはやどうでもよいのかといえば、そうではありません。最近は、効率的に「結論」を手に入れることが重視される傾向があります。しかし、効率を重視するあまり「プロセス」を軽視することになれば、それは本末転倒です。

例えば、結論を「情報」、プロセスを「思考」と言い換えてみます。プロセスとしての「思考」の結果、結論としての「情報」を得ることができます。流通しやすいのは、情報である「結論」の方です。流通しやすいということは、普及のためのコストが低いということであり、コストが低いということはそれだけ流通しやすいということです。結果、行き渡るのは「結論」ばかりということになります。

「結論」は、「答え」と言い換えることができます。「答え」が広く流通することで、思考というプロセスを経ることなく、結論だけを手に入れることができます。これは「効率的」であり「合理的」です。そのため結論は「価値」として認められやすく、売り買いの対象になりやすいのです。結果、「結論」や「答え」に至るまでのプロセスを知ることなしに、「答え」のみを鵜呑みにする人が増えていきます。

ここで「結論」「答え」は常に暫定的なものである、ということを知る必要があります。時間や場所など様々な条件によって、「結論」は変化していきます。プロセスを理解していれば、変化する「結論」に対して「思考」によって対応することができます。しかしプロセスを理解していなければ、変化する「結論」をその都度鵜呑みにし続けるほかありません。

プロセスと結論の関係は、本来次のようなものです。

プロセス→結論A→プロセス→結論B→プロセス→結論C→……

プロセスなき結論では、これが次のように変貌してしまいます。

結論A→結論B→結論C→結論D→結論E→結論F→……

このような結論の連鎖において、働いているのは「思考」ではなく「情報収集」です。

プロセスを失うと、思考によって結論を「生成」することができなくなります。そして、結論Aから結論Bへと「展開」することができなくなります。上の図では→でつなぎましたが、実際には→によってつながれることなく、脈絡のない「結論」が断続的に現れているだけなのです。複数の「結論」の間に関係性はなく、場当たり的な情報収集が行われているだけです。これでは、変化への対応が困難なものになるだけです。

「プロセスを失う」ということは、「基準を失う」ことと同義です。そして「基準を失う」ということは、「自分を失う」ことと同義です。「自分」を持っていなければ、「自分」は容易に「他人」に取って代わられます。影響され、憑依され、他人の思考があたかも自分の思考であるかのように錯覚する。これが、「プロセスなき結論」の行き着く先なのです。

とりあえず始めてみる

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

現在LITTLE MAN BOOKSでは、刊行を予定している、いくつかの本を制作しています。そしてそれらのどの本も、これから先どのような内容になるのか、まだ定まっていません。5%、20%、50%できあがっていてもなお、残りの50%や80%、95%は、どのようになるかが見えていないのです。それはたまたまそうなってしまったわけではなく、あえてそのように制作しているのです。

先の見えない制作というものは、常に、この先どうなるかわからないという不安を抱え込むことになります。本来であれば、先に設計図をきちんと作り、完成へと至るための行程をしっかりと計画し、決めたフローに従って着々と作業を進めていく。そのような作り方こそ、不安もなく、効率よく、予定した通りの完成物を得るためのショートカットであるはずです。

けれどもこの「予定通り」は、イレギュラーを嫌い、偶然を妨げ、無駄を省きたがるという意味で、最終的な成果物も、そこに至るまでのプロセスも、想像力の範囲内に収まってしまいがちです。そこには驚きがなく、臨機応変な対応もなく、いわば「予定調和」だけが待っています。不安とは「安定がない」ことに由来する心の動揺ですが、予定調和はそこに「予定通り」の「安心」をもたらします。

LITTLE MAN BOOKSは、本の最終的な入れ物(それは形式とでも呼べるものです)の大まかなビジョンは決めておきますが、それはあくまでも形にすぎず、その入れ物をどのような内容で埋めるのかは決めることなく制作を始めます。重要なのは、この「とりあえず始めてみる」ということです。大まかなビジョンによって向かうべき大まかな方向は決めておきますが、あとは「とりあえず一歩を踏み出す」ことに委ねるのです。

とりあえず一歩を踏み出すと、それがどれだけ小さな一歩であったとしても、視界が変わります。そして新しい視界のもと、次の一歩をどちらの方向に向けて踏み出そうかと考えます。このような具合に一歩、一歩と歩を進めていくと、視界の変化は大きなものとなり、一歩の連続が大きな距離となって、最初の開始位置から随分と離れたところまで来ていることに気づきます。

ここで重要なことは、歩を進めていくにつれ、小さな差異はその積み重ねによって大きな差異へと変化しているということです。小さな一歩の積み重ね、つまり小さな判断の積み重ねは、結果的にまったく異なる世界へと人を導いていきます。そして、それら個々の判断、一歩の中には、「決定的」なものと、そこで得られた決定を先へと伸ばしていく「延長」的なものの両方が含まれています。

「決定的」な判断は、歩を進める道程によって描かれる線のいわば「結節点」のようなものであり、そこでの判断は、描かれる線の形状に大きな影響を与えます。そしてその結節点から伸びる延長線は、その「決定的」な判断を起点としてその判断を強調して伸びる「余韻の線」です。余韻の線は決定的な判断の「響き」「反響」であり、結節点での「判断」の強さによって、どこまで伸びることができるかが決まります。

言葉の「力能」

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

ネットの記事で、「幸福」についての議論を見かけました。しかしその議論は、そもそも「幸福」とは何か? を定義しないところ行われていました。そして、言葉によって「幸福」を定義することは、非常に困難なことだと思います。幸福は、「幸福」という言葉の示す範囲をはるかに超えて、その定義を曖昧なものにしていくからです。

言葉は「理解する」ための道具です。言葉がなければ、人は対象を理解することができません。言葉によって人は「残す」ことができ、残すことによって「理解」し、理解することによって「終わらせ」、「始める」ことができます。言葉を読み聞くことによって、人はその言葉の持ち主の「考え」を理解し、その向こう側にある「その人自身」を知ることができます。

しかし、言葉の持つこうした力能には限界があります。言葉の手には余る領域というものがあり、かろうじてその領域を指す言葉が存在してはいるものの、実際に言葉がそれを理解するための役割を十分に果たしているかというと、どうもそうとは言い切れないことが多いというのが現実です。それは例えば「幸福」「自由」「愛」「死」「正義」といった言葉と、それが指し示しているはずの「なんだかよくわからないもの」です。

つまり、これらの領域はいくら言葉を尽くして「表現」したとしても理解するには不足のある「何か」であり、言葉による「理解」を超えたところにあるものだと思います。しかし、それでは「幸福」「自由」「愛」「死」「正義」といった言葉によって示される領域が手の届かない事柄なのかといえば、そうではありません。これらは、いずれも確かにあるということがわかり、「感じる」ことのできるものなのです。

こうした現実に直面するとき、言葉とはあくまでも「理解」のための道具にしか過ぎないものである、ということを実感させられます。つまり「理解」とは所詮、言葉の次元で行われる組み合わせのパターンにすぎないのであって、それ以上でも、それ以下でもないのだということです。言葉が傲慢になる時、言葉からこぼれ落ちるもの、言葉の手に負えないものは、価値のないものとして積極的に破棄されます。

言葉の手からこぼれ落ちるものとは、いわば「理解できないもの」です。それはあくまでも「言葉によっては」という留保つきの「理解できない」なのですが、言葉を「対象を正確に指し示すことのできる記号」として考える言葉至上主義に陥っていると、言葉にできないものとは理解できないものであり、理解できないものとは価値のないものである、という短絡へと陥っていきます。

こうした限界に自覚的な言葉は、自身の力能の範囲を超える領域に対する謙虚さを持っています。そして、言葉が指し示すことのできない領域があるということを自らの中に織り込んでいます。それは、言葉に依存しながら、その無力さをも自覚するという、一種のジレンマを抱えた状態です。そのジレンマに対する苦しみや足掻き、諦念、希望といった様々な感情が、こうした「無力な」言葉のうちには含まれています。

言葉の限界から目を背ける限り、「言葉にできない何か」に目を向けることはできません。それに対して、「言葉にできない」ことをあえて言葉にしてみるとき、そこには言葉では言い表すことのできない、けれども確信を持って感じることのできている幾多の「何か」が含まれています。そしてそのような言葉こそが、人を動かす力を持っているのだと思います。

「記録」と「記憶」

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

前回話に出た、写真の「記録」と「記憶」について考えています。写真には「記録」と「記憶」という2つの側面があり、どちらも残す/残ることに関わるものです。記録は客観的なもの、記憶は主観的なものであり、前者は人が存在せず写真のみでも成立しますが、後者は人が存在しなければ、つまり人と写真との「関係」がなければ成立しません。

写真というのはそもそも技術的なものであり、技術とはそれ自体で自立して存在しうるものですから、写真は本来、客観的な性質を備えています。記憶という主観的、関係性的な側面も、この「記録のための技術」という客観的な土台なしには成立しないのです。人は写真に触れる時、出会う時、この「記録」を前提として、その上で様々な記憶的作業を試みます。その記憶的作業の中に、様々な感情の揺らぎ、すなわち親密さ、情動も含まれるのです。

写真は、そのはじまりにおいて一部の専門家のみが扱うことのできる技術でした。つまり、「記録」を取り扱うところから始まったと言えます。それが、誰もが扱うことのできる技術として普及するに従い、写真はより個人的なものへと姿を変え、「記憶」を取り扱うものへと変化します。さらに写真を広げるためのインフラが整備されるに従い、写真は個人的な「記憶」でありながら、かつ広く社会的に共有される「記録」でもあるもの(ソーシャルメディア)へと変化します。

写真は現在、個人的な「記憶」を扱うメディアであると同時に、それぞれの写真が持っている個人との関係性から切り離されたところで流通し、共有されうる「記録」的なメディアとしても機能しています。これは、「記憶」以前の素朴で原初的な状態としての「記録」に対し、「記憶」を通過したところに立ち現れる「記録ver.2」であると言えるのかもしれません。

「記録ver.2」は、記憶の土台としての「記録ver.1」に比べより広範囲に流布し、量は膨大であり、非常な速度で拡散、共有されていくものです。そしてその「記録ver.2」の上で行われる種々の「記憶」、つまり「記憶ver.2」こそが、現在の写真を取り巻く状況であるということができます。「記録」と「記憶」それぞれのver.1から2への移行により、状況は複雑になっています。そして、その価値は著しく低いものとなっています。

それぞれのver.2において写真がその価値を落とした理由には、様々な要因が考えられると思います。例えば、いつでもどこでも手に入ること、量があまりにも膨大であること、誰もが公開することができ、違いが少なく、どれも同じように見えること、などです。メディアとしての軽さ、扱いの容易さは、その数を増やすことに寄与し、数の増大は質の均質化を招きます。そして質の均質化は、媒体を価値の下落へと導いていきます。

そしてなにより、写真がその価値を落とした背景には、「記録」本来の役割としての「関係性」が希薄となり、曖昧なものとなっていったことがあるように思います。「私」にとっての「記憶」ではなく、「みんな」にとっての「記憶」へと落ち込む時、その価値はよりリーズナブルで、誰にとっても等価値なものとなります。個の質ではなく集合としての量が求められ、個の記憶ではなく集合としての記憶が優先されるのです。

「親密」な写真

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

親密さということに関連して、「親密な写真」ということについて考えています。「親密な写真」といった時に私が真っ先に思い浮かぶのは、ロラン・バルトの「明るい部屋」です。写真論の名著として知られるこの本ですが、何度読み返しても、私にはその主張するところがよくわかりません。辻褄が合っているような、合っていないような、合わせるつもりがないような。それはバルトによる独り言であり、しかしその独り言の吐露がなぜか人の心を打つ、そのような文章なのだと思います。

バルトの「明るい部屋」は、その主張の不明瞭さと引き換えに親密さを獲得しています。そしてその主張するところもまた、親密さに依るもののように思います。その親密の故にこそ、「明るい部屋」は明晰なものではなく、曖昧、感情、記憶、揺らぎ、そして不明瞭なムードを醸し出しているのではないでしょうか。ここでは、バルトの文章は理解するものではなく感じるものであり、その揺らぎに付き合うもののように思われます。

親密さと理解は、相反するものだと思います。親密さのあるところに理解はなく、理解のあるところに親密さはありません。親密さは、十全な理解によっては得られません。むしろ、理解の不備、不全によってこそ、親密さは生まれるように思います。写真が理解されようとする時、また写真が理解されるものであるとき、そこに「親密な写真」は立ち現れないでしょう。なぜなら、親密さとは寄り添うことによってしか得られないものであり、寄り添うことは、理解することの不可能性を意識するところに生まれる態度だからです。

写真は現在、膨大な量の情報を保管し、伝達するインフラストラクチャーの実現によって、写真が本来持っている「記録」と「記憶」という2つの機能を最大限に活用する術を得ています。記録によって客観性を、記憶によって主観性を実現する写真は、この2つの機能を、インターネットというメディアの上で同時に実現するという幸運を得ているのです。しかし、その結果、写真は記録による「共有」と、記憶による「共感」の価値に包み込まれ、理解されようとするもの/理解されるものとして消費の対象となっています。

消費の対象としての写真は、そこではすでに「情報」へと還元されています。情報へと還元された写真は、フラットなインフラの上で誰にも手に入るものとなるとともに、誰の手にも入らないものとなります。それは、近くて遠い/遠くて近いのではなく、ただただ遠いだけの存在なのです。この離反、喪失は写真に限らず、情報へと還元されるすべての表現に当てはまるものです。そしてそこでは、「親密さ」が失われているのです。

親密さとは、個人的なものです。そして容易には共感することのできない、微細で複雑な感情です。再現性はなく、常に個別的なものであり、一期一会であり、二度繰り返されることはありません。同じ写真を見ても、毎回異なる感情が生まれ、異なる体験があり、目の前には常に新しい写真があります。それは感情のやりとりであり、駆け引きです。完全には交わらない感情、共感することのない感情が、ある一定の距離のもと出会い、触れ合い、擦れ合い、また離れていく。そのような体験が「親密さ」であると思います。

写真が記録と記憶の機能を背負っていることに代わりはありません。しかし「親密さ」のもとで、記録と記憶はその質を変化させるように思えてなりません。その質とは、機能的ではなく体験的であり、合理ではなく不合理に基づいています。せっかくの出会いにも関わらず、理解できず、また理解されないまま離れていかざるを得ない、そのような「無為」の行為こそ、写真に求められる「親密さ」という名の経験なのではないかと思っています。