住宅地にて

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

先日、1年ぶりに会った友人と、戸越銀座から三軒茶屋まで話をしながら歩きました。品川区、目黒区、世田谷区という異なる区をまたいで歩いていると、景色のちょっとした違いが目に映り、またよく似た景色に出会うことで、以前ここを歩いたことがあるのではないかという思い違いをしたりします。

ひたすら歩き続ける中、1つの話を掘り下げるでもなく、ある話題からある話題へと、飛び石を乗り移るような感覚で、尽きない話が続いていきます。住宅街の平坦な道を歩き続けること。そして横へとスライドし続ける話題のリズムが合間って、ある種のトランスに似た感覚がそこにはあるようでした。

このようなことがあると、私たちの身体や意識の上で、時間と空間は本当にパラレルなのだと実感します。そしてこうした時間と空間の感覚の一致は、私と異なる他者とのギアの噛み合いによって生まれるのだということを実感できます。

空間を移動すること、そして時間を過ごすこと。空間を移動している時と、移動を中断し止まっている時とでは、時間や他者に対する感覚も変化します。空間、時間、他者との関係。それら相互の関係とその変化は、価値のヒエラルキーとは無縁に生まれ、また消えていくもののように思います。

その中で、ワークライフバランスについての話が出ました。私は、ワークとライフを1つの事象の異なる側面として捉えたいと思っています。ワークとライフは、2つに分離しどちらかを選ばなければならないものではなく、「私という現象」の「切り取り方の違い」にすぎないと思います。

分裂ではなく、連続性を見ること。連続は、とどまることなく続いていく変化を意味します。それは1を構成することなく、てんでばらばらに、あちこちで無数のアウトプットの火花を散らしながら生まれ、また消えていくのではないでしょうか。それは統一体ではなく、連続体なのです。

統一体ではなく、連続体として生きること。それは、あるときは移動し、あるときはとどまり、その中で出会うさまざまな関係の中に自身を浸し、関係が変化するただ中に揉まれるあり方を意味しているのだと思います。