小沢健二と「親密さ」について

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

先日、小沢健二が書いていた、筒美京平との思い出についての文章を読みました。内容は実際の文章に直接当たってもらえればと思うので詳しくは触れませんが、それはとても小沢健二らしい「親密さ」を感じさせる文章で、こうした文章を書ける才というものに、あらためて興味を持ちました。

最近、「親密さ」という言葉をキーワードに、いろいろな考えを巡らせてみたいと思っています。ちょっとまだ考えはまとまっていないのですが、人と人との関係における親密さ、目に見ることのできない空気感や距離感、感覚の交換や感情の伝達、などに興味があるのです。

親密さを構成するのは、いうまでもなく人と人です。また、人と動物、人と植物など、親密さは人に限らず感じ、作り出すことができると思います。ある意味ありふれたものであるはずの親密さは、それでも、今の日本の社会ではなかなか貴重なものになっているのではないかと思います。

私が考えているのは、主に、こうした親密さから何を生み出すことができるか? ということです。それは何か目的を立てるということとはちょっと違って、親密さそのものが目的であり、そこから滑らかに生まれてくる雰囲気、感情、変化、を大事にしたいということです。

こうした親密さから生み出されるものは、それ自体すでに1つのアウトプットとなっています。そして、そのアウトプットを固定し残るものにすることにも、もちろん関心があります。私の場合は、それが主に本だったりするわけです。

けれど、こうした本という「形に残るアウトプット」は、それ自体を目的とするものではないし、そうはしたくないとも思っています。それは結果であって、目的ではない。目的という方向のある意識とは別のところに、親密さという方向のない意識があって、それを大事にしていきたい、ということを思います。

ところで小沢健二の文章は、とても商業的でない文章だな、ということを思います。ライブのグッズや彼のWebページに載っている文書を読むと、その独特さ、拙さ、個人的で、感情的で、取り止めがなく、そして何より親密な雰囲気に、この文章は商品にはならない、ということを強く感じるのです。

この商品的でないということに、とても魅力を感じます。商品的でないということは、無理に人に伝えようと思っていないということを意味します。人は無理に人に伝えようと、親密さから離れた文章を書きがちです。なかなか難しい試みですが、私も小沢健二のように、親密な文章を書きたいと思っています。