完成と発酵

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

LITTLE MAN BOOKSでは、今後も継続して書籍の刊行を行っていく予定です。そして、現在も何冊かの本の制作を行っています。けれども、現在制作中のそれらの本がいったいいつ発売できるのか、あまりよくわかっていません。締め切りも特に設けていないため、予定はあるけれども計画はなし、といった具合です。

商業的な出版では、こうしたことはあり得ません。売り上げが上がらなければ立ち行かなくなるわけですから、定期的に本を刊行し続けることが必須です。LITTLE MAN BOOKSは商業的な出版ではないためこうしたことができているわけで、その点ではとても緩い運営であると言えます。

LITTLE MAN BOOKSの刊行方針は、「完成したら出す」というものです。そして、「完成するまで待つ」ということです。世の中には、急ぐことによって完成が早まるものは数多くあります。急がない場合に比べて、急いだ場合の完成度もさほど変わらないことも多いと思います。それでもLITTLE MAN BOOKSは、急がない選択を取っています。

この考え方の基本には、物事が出来上がるには相応の時間が必要、というものがあります。例としては、発酵があります。発酵には一定の時間が必要であり、その時間を無理に短縮しようとするのは自然ではありません。自然とは「自ずと然る」の意味ですが、「自ずと」に無理に手を加えれば、それはもはや自然ではありません。

とはいえ、「完成するまで待つ」というのは、何もしないで待つということではありません。発酵に一定の条件が必要であるように、本の完成に必要な条件を整え、それを維持する必要があります。そして、その過程を観察する必要があります。観察する中で状況が変化することがあれば、なんらかの手を加えます。そのようにしながら「待つ」ということです。

よく思い浮かべる諺に、「急いては事を仕損じる」「慌てるこじきはもらいが少ない」があります。どちらもかっこいい諺ではありませんが、急いだり、慌てたりして失敗したことがよくあるので、忘れないよう心に止めることにしています。急いだり、慌てたりしてうまくいくことがないのは、そこに「無理」があるからだと思います。つまり、「理が無い」のです。

「待つ」ということは、「理」を探し続けるということだと思います。理を探し続け、理から外れることのないよう注視し続けること。少しでも理から外れかけたら、その時はすかさず理に戻るよう、修正を行います。こうした細かい調整、修正が、本の自然な完成には不可欠です。これは、本が出来上がるプロセスに「寄り添う」ようなイメージです。

本が完成するまでの期間は、本によってさまざまです。早いものもあれば、遅いものもありますし、結局完成しないで終わるものもあるかもしれません。それぞれ固有の「必要な時間」というものがあり、「タイミング」というものがあります。「そのタイミング」がやってこない限り、本は永遠に完成しないのだと思います。

その意味で、本の完成は「目的」ではありません。完成は「結果」であり、目的ではないのです。ここでもまた、プロセスに対する志向が重要になります。本の完成を目的としてしまうと、必然的に、「完成を急ぐ」ことになります。その結果、「プロセスを忘れる」ことになります。一見、回り道と思われる道が、最終的には近道なのだということです。

音楽と言葉

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

前にも書きましたが、この半年ほど、アーサー・ラッセルとブライアン・ウィルソの音楽ばかりを聞いています。そして、自分が感じたことや思ったことを文章にしたいと思うのですが、なかなか思うようにはいきません。このブログで度々書いてきたように、言葉の能力は有限です。音楽という「言葉ではない表現」についての表現を言葉で行うというのは、なかなか難しいことだと思います。

以前、といっても20年ほど前ですが、友人たちと音楽についての雑誌を作っていました。インタビューや論考を中心としたその雑誌は、普段自分たちが音楽を聞きながら話していることを他の人にも知ってもらいたい、伝えたいというモチベーションから生まれたものでした。その雑誌で私は編集の役割を担うつもりでしたが、結果的に自分でも音楽についての文章を書くことになりました。

様々な批評家や音楽家にお世話になり、ご迷惑をおかけしながら雑誌は続き、11号で完結しました。そして、私はその雑誌の制作を続けている間、一度も音楽についての文章を書くことを仕事にしたい、と思うことはありませんでした。それは、自分の中にそうした欲求がなかったことに加え、その困難さの自覚もまた、理由の1つであったように思います。

音楽についての文章を書くのは難しいことです。そもそも言葉にできるくらいであれば音楽にする必要はなく、音楽である以上、言葉にする必要があるとも思えません。音楽は音楽として完結しており、無駄に言葉に置き換える必然性などどこにもないように思われるのです。それでも、音楽を聞く中で、自分が感じたこと、考えたことを言葉にしたいという思いがなくなることはありません。

音楽に対する言葉からのアプローチとしては、演奏に関わるテクニックによるものがあります。音楽の雑誌を作っている頃、人伝に私が楽器の演奏をしないので、音楽に関する文章の書き手としては限界があるのではないか、という話を聞きました。その時、それはまったくその通りで、演奏技術からのアプローチができないことは、大きな欠点になるだろうな、と思いました。

例えばブライアン・ウィルソンの曲のコード進行の展開について書かれた文章を読むと、なるほど、コードがわかると音楽の聴き方も変わるだろうなと思います。また、曲を構成する楽器の編成についての文書を読むと、それぞれの楽器の種類や音、使い方がわかると、二重にも三重にも音楽を深く楽しむことができるだろうと思います。

そうは思いながらも、コードや楽器というのは音楽を構成する一要素であり、分析する上での有効なフックではあるものの、ストレートな意味での「言葉」ではないということに思い至ってしまいます。つまり、コードや楽器によって音楽を「語る」ことができても、それはあくまでコードや楽器によるアプローチでしかなく、素朴な意味での「言葉」によるアプローチではないのです。

結局のところ、言葉と音楽が完全に一致する場所というものは存在しません。音楽は言葉ではなく、言葉は音楽ではないのです。音楽とは質であり、音楽の質について知りたければ音楽を聴けばよいということになります。その意味で、質としての音楽には、同語反復的なアプローチしか許されていないように思われます。

それでもなお音楽を言葉にしたいという欲求があるとすれば、それは、人間の思考の大きな部分を占めるのが言葉であるからだと思います。ブライアン・ウィルソンは、音楽のビジョンと同時に、詩のイメージを常に追い求めていました。アーサー・ラッセルも同様です。言葉とは無関係に存在するはずの音楽に言葉を持ち込むこと。それこそが、ポップ・ミュージックの真髄なのかもしれません。

人は思考する時、言葉に頼らざるをえません。ある表現(それは音楽に限りません)が好きでそれについて考えたいと思ったとき、真っ先に頼りになるのは言葉なのです。音楽を聞き、音楽について考えることは、大きな喜びです。そしてその喜びは、言葉によって音楽を語るという、不可能な試みに依拠しています。そのジレンマとともにあるからこそ、言葉は1つの冒険となり得るのです。

大きな災厄/小さな態度

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

コロナの到来からもうすぐ1年が経とうとする中、ようやく今後の世界の道筋が見えてきたような、そんな気がしています。これまでなんとなくもやもやと、曖昧なままに漂っていた先行きが、ようやく明らかになり始めたのではないかと思うのです。コロナは確かに不幸な災厄です。そして不幸な災厄は、人間の社会のあり方を大きく変えていく契機となります。

こうした社会を変える契機に対して、世の中は、それを上手に利用できる人と利用できない人に分かれます。そして、利用できないよりは利用できた方がよいという考えで、多くの人が利用する側へと流れます。早く流れた人ほど大きく、遅く流れた人ほど小さく、稼ぐことができるでしょう。

私はというと、もともと変化に敏感に対応できるタイプの人間ではないものですから、こうした世の中の流れからはなるべく距離をとったところで生きていきたいし、またそれが向いていると思っています。つまり、こうした流れにはなるべく参加しないでいよう、というスタンスです。

けれども流れに参加しないということは、必ずしも、流れとは無関係に生きるということや、流れを無視して生きるということを意味するわけではありません。前者については、積極的に参加をしなかったとしても、関係することなしに生きていくことは不可能です。私たちは社会的な生き物なので、多かれ少なかれ、変化の影響を受けざるをえないのです。

私にとって世の中の変化による影響は、受けにいくものではなく、「結果的に」受けてしまうといった種類のものです。世の中の変化を積極的にリサーチして、事前にアクションを起こすつもりはありません。そうではなく、影響を受けていることにいち早く気づき、事後的に対処を考えるのがよいと思っています。

後者については、流れを無視するのではなく、むしろ注視したいと思っています。よく観察し、感じ、自分はどうすればよいかを考えるのです。ここで重要になるのは、大きな決断ではなく、小さな行動です。いや、行動というほどのこともない、小さな態度、姿勢であるかもしれません。その意味では、何をするかではなく、どのようにするかの方が重要なのです。

何をすればよいかを考えると、気が重くなりがちです。自分の判断が正しいのか間違っているのか、二者択一のように感じられるからです。しかし、こうした大きな選択は、実は小さな行動の積み重ねによって出来上がっているものだと思います。積み上げられた石の一番上の頂上が大きな選択に見えているだけで、そこに至るまでには小さな選択が脈々と繰り返されているのです。

ですから、大きな選択をどうすればよいかと迷う前に、小さな態度を積み上げていくことが重要です。それは、与えられた影響に気づいていること、そして、観察によって自身の小さな態度を決定していくことです。それは、社会の大きな動きに対して身をわきまえるということでもあります。小さな選択に正解や不正解はありませんから、余計なプレッシャーを感じる必要もありません。

人間、とりわけ個人は、無力なものだと思います。大きな災厄に対して、大きな力を駆使する、追随するという選択肢は確かにあります。けれど、こうした力によって動かし動かされる社会は、無力な1つ1つの個人の集積によって出来上がっているということを意識しておく必要があります。そして、自分にとっての真実はどこにあるのかということを、考えておくことが大切です。

「天才」とは何か?

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

この半年ほど、アーサー・ラッセルとブライアン・ウィルソンの音楽ばかり聞いています。というよりも、それ以外の音楽をほとんど聞いていないのです。そして彼らの音楽を聞くたび、「天才」という言葉が私の頭をかすめます。

「天才」という言葉は、使いづらい言葉として知られているように思います。「誰それは天才だ」といった発言をすると、必ずといってよいほど「それは彼の努力を軽視している発言だ」といった批判が起こります。こうした批判の裏には、「努力する必要のないほどの才能を天才と呼ぶ」という考えがあるのではないでしょうか。

私もまた、安易に「天才」という言葉を使いたくはないと思っています。誰かを「天才」と決めつけることは一種の暴力にもなりうるし、そもそも「天才」という言葉の意味があまりにも曖昧で、聞く人によって異なる解釈を生むものだと思うからです。

ですが、それでもやはりアーサー・ラッセルやブライアン・ウィルソンの音楽を聞いていると、どうしてもこの言葉を使いたくなってしまいます。彼らはやはり「天才」であり、それ以外の何者でもないように感じられてしまうのです。そこで、ここで私なりに「天才」の定義を試してみたいと思います。

「天才」という言葉を分解して考えてみると、「天賦の才」「天から与えられた才能」という意味に取ることができるように思います。つまり天才の才は、自らの努力によって後天的に手に入れた才ではなく、あらかじめ「先天的」に与えられた才である、ということです。

これは、なんとなく実感できることかと思います。「天才」と呼ぶほどではなかったとしても、同じことを同じ時期に始めたときに、ある人がどんどん上達していくのに対し、ある人はいつまでもうまくならないというのはよくあることです。そして、その差が必ずしも努力の差ばかりではないのでは? と思うこともしばしばです。

こうした先天的な才能はしかし、必ずしも顕在化しているとは限りません。仮にある人がサッカーの天才であったとしても、サッカーという競技が存在しない場所に生まれれば、その才は永遠に顕在化しないでしょう。またサッカーという競技が存在する場所に生まれても、サッカーボールに触れる機会や意思がなければ、やはり顕在化することはないはずです。天才とはあくまで「潜在的」なものであり、それが顕在化するには一定の条件が必要なのです。

そして、潜在的な天才性が顕在化するためには、外的な条件だけではなく、やはり本人のいくらかの努力が必要であるように思います。努力なしに天才性がいきなり目覚めるということはなく、その才を掘り出す労苦が必要になるように思います。その意味では、「天才とは努力を必要としない才である」という定義は、間違っているように思います。

そしてもう1つ、天才の重要な特徴があるように思います。それは、「自分ではコントロールできないところ」にその才がある、ということです。自分でコントロールできることは、自分が得ることができるものです。しかし天才の才は自分では得ることのできない「先天的」なものですから、コントロールの外側にはみ出るものでなければなりません。

天才が生み出すのは、「理屈」で理解できるものではありません。そして、コントロール不能の「自分でもどうにもならない何か」を生み出してしまうものです。結果的として、どうしてもそうなってしまう。それ故にこそ、天才は不幸を生み出すことがあります。コントロールできない才能に、合理性はありません。天才とは、自分の才を自由に乗りこなすことのできない、不自由な存在なのです。

おはぎの「味」

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

量に比べて、質を伝えることは難しい、と思います。例えばおはぎの「数」を伝えることは誰でもできますが、おはぎの「味」を伝えることはなかなか難しいものがあります。おはぎの味を糖度などに置き換えれば伝わりやすくなりますが、それは味という「質」を「量」化しているわけで、質として伝えているわけではありません。

おはぎの「味」を表現する方法として、言葉や写真、動画など様々なことが考えられます。しかし、いずれも正確な方法とは言えません。それらの方法には、数字に比べて「曖昧さ」が残っています。「客観」としての数字の公平性、中立性に対して、「正確に伝える」という点でどうしても劣ってしまうのです。

こうした「伝えやすさ」そして「正確さ」から、量、すなわち数字は非常に重宝されています。売り上げや注文数、製作日数、製作費、重さ、大きさ、ページ数などなど、「もの」は数字に置き換えられることで「伝わりやすい」ものとなり、実際に流通することによって「価値」となります。

その結果、世の中に多く出回るのは「量的な価値」であり、「質的な価値」は出回りにくいという事態が生まれます。けれど、その「もの」を正当に評価するための物差しとして「量」のみを取り上げるのはフェアではありません。「質」をないがしろにしたところに生まれる評価は、正当なものとは言い難いのです。

例えばおはぎの量が 1日に1000個売れたからといって、そのおはぎが美味しいかどうかの証明にはなりません。また、1日に1000個売れたおはぎが100個売れたおはぎよりも美味しいかどうかは、その1000と100の数字の比較からは証明できません。

「美味しい」という質は、量では表現できません。しかし、量で表現できないからといって「美味しい」という質が存在しないわけではありません。この、「伝えることが難しいが確実に存在する価値」こそが、「質」という価値の定義であるように思います。

こうしたことから、「量の価値」と「質の価値」は、必ずしも連動していないということがわかります。売れるものがよいとは限らず、よいものが売れるとは限らないのです。量と質の間に、相関関係を見ることはできません。同じ「おはぎ」に属するものであっても、そう簡単に比較の俎上に乗せることはできないのです。

このように表現しづらい、伝えづらい、流通しづらい「質」は、しかし実際に食べてもらい「味」を知ってもらうことで、いとも簡単に、そして正確に伝えることができます。この「味」すなわち「質」は、味以外の情報、数字や言葉、写真などには置き換えることのできないものです。

味はどこまでいっても味であり、質はどこまでいっても質である。「味」や「質」が別の情報に還元されることはありません。「置き換え不可能な価値」は、「比較不可能な価値」ということでもあります。その意味で質的な価値とは、「美味しいものは美味しい」といった同語反復に終わる価値でもあると思います。