音楽と言葉

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

前にも書きましたが、この半年ほど、アーサー・ラッセルとブライアン・ウィルソの音楽ばかりを聞いています。そして、自分が感じたことや思ったことを文章にしたいと思うのですが、なかなか思うようにはいきません。このブログで度々書いてきたように、言葉の能力は有限です。音楽という「言葉ではない表現」についての表現を言葉で行うというのは、なかなか難しいことだと思います。

以前、といっても20年ほど前ですが、友人たちと音楽についての雑誌を作っていました。インタビューや論考を中心としたその雑誌は、普段自分たちが音楽を聞きながら話していることを他の人にも知ってもらいたい、伝えたいというモチベーションから生まれたものでした。その雑誌で私は編集の役割を担うつもりでしたが、結果的に自分でも音楽についての文章を書くことになりました。

様々な批評家や音楽家にお世話になり、ご迷惑をおかけしながら雑誌は続き、11号で完結しました。そして、私はその雑誌の制作を続けている間、一度も音楽についての文章を書くことを仕事にしたい、と思うことはありませんでした。それは、自分の中にそうした欲求がなかったことに加え、その困難さの自覚もまた、理由の1つであったように思います。

音楽についての文章を書くのは難しいことです。そもそも言葉にできるくらいであれば音楽にする必要はなく、音楽である以上、言葉にする必要があるとも思えません。音楽は音楽として完結しており、無駄に言葉に置き換える必然性などどこにもないように思われるのです。それでも、音楽を聞く中で、自分が感じたこと、考えたことを言葉にしたいという思いがなくなることはありません。

音楽に対する言葉からのアプローチとしては、演奏に関わるテクニックによるものがあります。音楽の雑誌を作っている頃、人伝に私が楽器の演奏をしないので、音楽に関する文章の書き手としては限界があるのではないか、という話を聞きました。その時、それはまったくその通りで、演奏技術からのアプローチができないことは、大きな欠点になるだろうな、と思いました。

例えばブライアン・ウィルソンの曲のコード進行の展開について書かれた文章を読むと、なるほど、コードがわかると音楽の聴き方も変わるだろうなと思います。また、曲を構成する楽器の編成についての文書を読むと、それぞれの楽器の種類や音、使い方がわかると、二重にも三重にも音楽を深く楽しむことができるだろうと思います。

そうは思いながらも、コードや楽器というのは音楽を構成する一要素であり、分析する上での有効なフックではあるものの、ストレートな意味での「言葉」ではないということに思い至ってしまいます。つまり、コードや楽器によって音楽を「語る」ことができても、それはあくまでコードや楽器によるアプローチでしかなく、素朴な意味での「言葉」によるアプローチではないのです。

結局のところ、言葉と音楽が完全に一致する場所というものは存在しません。音楽は言葉ではなく、言葉は音楽ではないのです。音楽とは質であり、音楽の質について知りたければ音楽を聴けばよいということになります。その意味で、質としての音楽には、同語反復的なアプローチしか許されていないように思われます。

それでもなお音楽を言葉にしたいという欲求があるとすれば、それは、人間の思考の大きな部分を占めるのが言葉であるからだと思います。ブライアン・ウィルソンは、音楽のビジョンと同時に、詩のイメージを常に追い求めていました。アーサー・ラッセルも同様です。言葉とは無関係に存在するはずの音楽に言葉を持ち込むこと。それこそが、ポップ・ミュージックの真髄なのかもしれません。

人は思考する時、言葉に頼らざるをえません。ある表現(それは音楽に限りません)が好きでそれについて考えたいと思ったとき、真っ先に頼りになるのは言葉なのです。音楽を聞き、音楽について考えることは、大きな喜びです。そしてその喜びは、言葉によって音楽を語るという、不可能な試みに依拠しています。そのジレンマとともにあるからこそ、言葉は1つの冒険となり得るのです。