書き継ぐということ

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

文章を書くということは、どういうことなんだろうと思います。文章を書くということは、まだ見える形になっていない考えや感情を、見える形にアウトプットすることであると言えます。見える形になっていないのは、その文章を書いている当事者にとっても、またその文書を読むかもしれない他者にとっても同じことです。書くことによって、見えない思念や情動は見えるものになります。

その意味で、書くことは「終わり」です。公開、公表、出版の有無に関わらず、アウトプットの時点でそれはいったん終わり、それによって空いた席には新しい思念や情動が入ってくる。それは新しい「始まり」となる。また、いったん終わったアウトプットは、それを触媒として、部品として、新しい結合、反応を生むための「始まり」となります。

文章を書く私は、こうした始まりと終わりの連鎖のプロセスの只中にいます。そしてそのプロセスに自分を乗せることで、少しでも遠くへ進むことができると信じています。例えそれが回り道であったり逡巡を含むものであったとしても、問題ではありません。問題はそのプロセスの「中にいる」ということだと思います。

こうしたプロセスは、「書き継ぎ」によって持続されます。1人の人が書き継いでいくこと、1人の人が書くことができなくなったとしても、それを受け継ぐ別の人がいれば、またそれは続いていくこと。言葉は書き手から自立した存在であり、幾人もの人の「書く」プロセスの中に織り込まれるものです。文章の「記名性」は、それほど重要ではありません。

こうした「書き継ぎ」のプロセスについて、小説「ハーモニー」では「善」という言葉を使って説明しています。

良いこと、善っていうのは、突き詰めれば「ある何かの価値観を持続させる」ための意志なんだよ。
そう、持続。(中略)人々が信じている何事かがこれからも続いていくようにすること、その何かを信じること、それが善の「本質」なんだ。

でも、永遠に続くものなんてない。そうだよね。

だからこそ「善」は絶えず意識され、先へ先へと枝を伸ばしていかなきゃならないんだ。善は意識して維持する必要があるんだよ。というより、意識して何事かを信頼し維持することそのものを善と呼ぶんだ。善の在り方は色々あれど、ね。

「書き継ぎ」のプロセスは、人の意志によって持続され、枝を伸ばしていく「必要」のあるものです。それは書き手である「私」が先へと進むために必要なことであり、私以外の「誰か」が先へと進むために必要なことです。先へ進むとは、進化や進歩、向上、拡大を意味しません。それは単に「持続」なのであり、かつ「持続」は意志のないところには存在しえないのです。

人の意志が信じることをやめれば、その「価値」は消え失せ、「持続」は断ち切られるでしょう。そして、歴史はこれまでそのようにしてあちこちで断線を繰り返し、持続は失われ、新しい価値にその場所を譲ってきたと言えます。人の死と同じように価値にもまた死というものがあり、それによって「世界の更新」が行われます。それは滅びであり、かつ防御でもあります。

だけど(中略)人間は成長する。人間は老いる。人間は病気にかかる。人間は死ぬ。自然には本来、善も悪もないんだ。すべてが変化するから。すべてがいつかは滅び去るから。それがいままで「善」がこの世界を覆い尽くすのを食い止めてきた。善の力で人間が傲慢になるのをぎりぎりのところで防いできた。

価値とはあくまで相対的なものであり、絶対的なものではありません。むしろ絶対的な価値があるとすれば、それは価値の終わりを意味するでしょう。価値の終わり、それは、世界の終わりです。しかし世界は仮に人類が滅んだとしても終わることがなく、故に価値が終わることもありません。

書くことは「始まりと終わりの連鎖のプロセス」ですが、ある1つの価値のプロセスが終わっても、別の価値によって、その連鎖のプロセスは続いていきます。価値とは変化のプロセスであり、不断の終わりと始まりによって支えられています。そして、「書くこと」は終わることのない「価値を更新するためのプロセス」にほかならないのです。

細部について

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

ロラン・バルトの「明るい部屋」に、「プンクトゥム」という概念が出てきます。これはラテン語で「点」「突き刺すもの」という意味で、「明るい部屋」では一般化、法則化することのできない、極めて個人的な感情の働きを意味しています。

「プンクトゥム」は、バルトがある特定の写真を見るとき、写真から与えられる感情の動きです。このプンクトゥムについて、バルトは「補足的」であり「部分的」であると述べています。写真の中にプンクトゥムとなる要素があるとき、それはその写真の中心的な主題ではありません(補足的)。そして、全体ではなくあくまで細部なのです(部分的)。

テキストについて、中心/補足、全体/細部という対立項で捉えるとき、前者はあらすじや要約、後者は部分や抜粋を意味します。そしてプンクトゥムの考え方と同じく、私にとって意味があるのは中心ではなく補足的事柄、全体ではなく細部であるように思うのです。

例えば「明るい部屋」において、中心と全体はひどく捉えづらい書物となってます。話はあちこちに飛び、ちょうど真ん中あたりで「前言撤回」されます。科学と個人的な感想の間を行き交い、バルト自身が迷っている風を醸し出しています。安易な要約を許さず、全体の把握を困難にするような迂回や逡巡に満ちています。

例えば小説「ハーモニー」において、全体の物語の「筋」は、それほど目新しいものではありません。管理社会、ディストピア、少女の自殺、拡張現実。SFをほとんど読んだことのない私でも、そこにあるのはありふれた素材であることがわかります。かんたんな要約でその趣旨を「わかってしまう」。そのような全体なのです。

そして、複雑にすぎる中心/全体も、単純にすぎる中心/全体も、どちらも「明るい部屋」「ハーモニー」の価値を示すものではありません。「明るい部屋」「ハーモニー」の価値を示すのはあくまでも「補足的な細部」なのです。

補足的な細部は、全体に奉仕することをしません。それは全体を見たときには気づかれることのない細かなディテールであり、要約やあらすじからは真っ先に切り落とされるべき「枝葉末節」だからです。しかし、重要なのは「枝」であり、「幹」ではありません。それも太い枝ではなく、細い枝、そしてその先にある1枚1枚の「葉」です。

細部の和は、果たして全体を構成するのかどうか? 量的にはYesですが、質的にはNoです。量的な和は全体を構成し、密集した場所には中心を見いだすことができます。しかし質的な観点では、それぞれの細部が「質的に異なる」ものである以上、単純な数量の和としてはカウントすることができないのです。

「明るい部屋」も「ハーモニー」も、細部を読むべき書物です。それは細部が全体を構成しないから、細部が全体に奉仕しないから、そして細部が全体とは無関係に増殖し、展開しうる力能を持っているからです。

どこまでも広げる/広がることのできる細部は、その延長線上に全体を構成せず、別の細部との結合と新しい形の生成を生み出します。細部は、静的で固定された全体/中心(あらすじや要約が変化することはありますか?)と異なり動的で、いつまでもどこまでも変化していくことができます。

神は細部に宿る、という格言は真実でしょう。細部に宿る神が全体に宿ることはありません。細部の神がいくら積み上がっても、全体を構成することはないのです。全体を構成することなく、中心となることなく、補足的な細部として変化し続けるもの。それこそが、神の本質なのだと思います。

現実の人々

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

先日マーガレット・ハウエルのWebサイトを見ていたら、「現実の人々」という言葉を目にしました。英語でなんというのかわかりませんが、翻訳の過程で少し硬くなったかもしれないその表現に、妙な魅力を覚えました。

「現実の人々」という言葉が表現するところに、それほど新鮮な意味はありません。具体的な、生身の人間を知る、というメッセージは目新しいものではなく、日常的なものです。それは、裏を返せば、いかに「現実の人々」を感じる、知ることが難しいかということの証明でもあります。

そして、こうした既存の意味使いにあらためて「現実の」「人々」という言葉の組み合わせを突きつけられるとき、そこに、私たちが普段見ている、接しているのは果たして本当に「現実」なのだろうか? という問いが降りてきます。

最近、「ハーモニー」という小説を読んでいます。これは未来の世界、すべてが安全・安心に管理された世界を描いたSF小説で、そこでは人のスペックはすべて数値化されてサーバに繋がれ管理されています。個人情報は、そのほとんどがパブリックなものとして公開され、拡張現実としてすべての人が見られるようになっています。

拡張現実とは言い得て妙なものです。情報の蓄積と流通によって現実が拡張された結果、「見える」「わかる」現実の領域は確かに拡大し、「現実」として人間が認識できる領域はかつての「情報化」以前の現実に比べて拡張していることは間違いありません。

けれどもこの「拡張」の意味は、もともとの意味における「現実」を押し広げたものはありません。そうではなく、もともとの意味における「現実」の上に被さるレイヤーとして、現実を覆っているにすぎないのです。つまり、現実のレイヤー化です。

レイヤー化された現実では、上位レイヤーの情報が多ければ多いほど、下層レイヤーの情報は認識しづらくなっていきます。そして、レイヤー群の中でもっとも下層に位置するのが、人間が生きる物理レイヤーとしての「現実」なのです。

小説「ハーモニー」のハーモニーという言葉は、「調和」すなわちノイズのない、社会を構成する要素がすべて無駄なくその役割を果たし、1つの巨大な機構を動かしていく、和声のように柔らかな社会主義を意味しています。

しかしここでのハーモニーは、「安全」と「危険」、「社会」と「個人」のバランスを著しく欠いた中での調和であるのにすぎません。バランスを欠いたハーモニーが、バランスを欠いていることに気づくことができないところまで振れてしまえば、それはその世界の中での閉ざされたハーモニーに終始します。それは「予定」調和にすぎません。

小説の中で、科学者はこの「バランスの欠如」に自覚的ですが、それを正そうとはしません。科学者の関心は「どうあるべきか」という倫理的課題ではなく、「どうあるか」という認識的課題だけだからです。そもそもの発端は「どうあるべきか」であったとしても、次第にそのことは忘れ去られ、現状をただ追認し、押し進めて行くだけの「どうあるか」に終始するようになります。

必要なのは「倫理」と「疑問」でしょう。「どうあるべきか」という倫理の観点から、疑問を持つことです。それは現在進んでいる方向に対して「止まる」あるいは「戻る」勇気を持つことです。成り行きの、行きがかりの上での変化は本当の変化ではなく、一時的な保留、つまりペンディングこそが、本当の意味での「変化」のタイミングとなるはずです。

親密さの果てに

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

「親密さ」について、引き続き考えています。親密さとは「関係」そのものです。1対1の関係としての親密さもあれば、複数の人が集まることによって生まれる親密さもあります。こうした親密さの中に生まれるのが「感情」です。そして、「明るい部屋」の中でロラン・バルトが書いた「還元しえないもの」すなわち「欲望や嫌悪や郷愁や幸福感」です。

バルトは、次のように述べています。「私は見る、私は感じる、ゆえに、私は気づき、見つめ、考えるのである。」ここでバルトは二度考えています。一度は感じる前に。もう一度は考える前に、です。親密さとは、まず「感じる」ものです。親密さを感じることは、欲求を生みます。また、快楽を生みます。より穏やかな表現に置き換えるなら、やりたいことを生み、心地よさを生むということになります。

欲求は行動の要因です。行動は変化を生み、プロセス、そして結果を生み出します。欲求なしに、何ものも生まれることはありません。快楽は、欲求とは反対に、維持をもたらします。変化を拒み、今の状態でいることを望みます。そして、欲求と快楽は相互にバランスを取りながら、交互に立ち現れては消えていきます。

欲求が暴走し、快楽が失われると、病と呼ばれる状態になります。この時、目の前にあるのは不安です。不安によって煽られ、そに不安を解消しようとさらに欲求が暴走し、新しい不安を呼び込みます。失うことを恐れるあまり、不安が不安を呼ぶスパイラルが発生し、人は疲弊します。その結果、何も与えられることなくただ幸福が失われます。

快楽に執着し、欲求が失われると、停滞が待っています。それもまた病であると言えるでしょう。停滞から抜け出そうとする意思と停滞のままでいたいとする意思が葛藤し、せめぎ合う中で人は疲弊します。ここにもまた、幸福はありません。幸福は、欲求と快楽のバランスの上で成り立っているからです。

快楽も欲求も、まずは感情的なものです。「私は見る、私は感じる、ゆえに、私は気づき、見つめ、考えるのである。」感情の前には「親密さ」があります。そして、感情の後には「幸福」があります。そしてこうしたもろもろの「感情的なもの」は、「一般」化することはできず、あくまでも、いつまでも「個別」的なものに留まるのです。

ロラン・バルトは、一貫して「還元」への抵抗を主張します(「自分の欲望や悲しみを宝物のようにかかえ込んで」)。それは還元されえない「絶対的な個」「あるがまま」のものであるからです。そして、親密さは常にそのようなものとしてあります。親密さについて考えることは、親密さを感じ、親密さの中に留まることです。決して、親密さから離れて語ることではないのです。

Timely/Timeless

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

前回、「待つ」ということについての文章を書きましたが、LITTLE MAN BOOKSでは、同時にもう1つ別のアプローチについても考えています。「待つ」ことによる本の制作は、多くの場合、時間がかかります。必要な時間を必要なだけかけることによって本が完成するのを待つわけですから、当然です。

「待つ」ことによって作られた本は、完成までにかけられた時間の堆積をそのうちに含んでいます。その結果、「超」時間的なものとなります。時間軸の中のどこか一時点というわけではなく、ある期間の時間をそのうちに含んでいることから「タイムレス」な存在になるのです。それを「普遍的」と言い換えることもできます。

完成までの「待つ」時間は、本が「普遍的」なものになるための時間、と考えることができます。タイムレスな存在は、タイムレスであるがゆえに、長く生きることができます。時間を超越しているがゆえに現在との関係は薄く、それだけ、新しい/古いという基準で計れない、つまり時間とは無縁であるという特徴があるのです。

何千年も生きた動物が、あるとき妖怪になる、という逸話があります。これは、「長い時間を経ることで時間を超越した存在になる」という方程式が、昔から存在してきたことを表しています。これほど大げさな話ではありませんが、「待つ」ことによる本の制作には、こうした妖怪への変化に近い考え方があると思います。

そして、LITTLE MAN BOOKSが考えているもう1つのアプローチが、「今」による本の作り方です。それはタイムレスではなく、タイムリーなものとして本を作るという方法です。「普遍」へと至るプロセスの中には、「現在」の連続があります。現在の細かい積み重ねの先に、無時間的な結果があるわけです。この「現在」を抽出することが、本を作るためのもう1つの方法なのです。

「今」によるアプローチは、一般にZINEと呼ばれる本の形が近いと思います。ZINEは多くの場合、ページが少なく、それほど高価でなく、簡素な作りのものが一般的です。ZINEはその制作に時間をかけるのではなく、「今」をすばやく本の形へと落とし込み、読者に届けることを意図しています。ZINEの語源はよくわかりませんが、MAGAZINEのZINEと捉えれば合点がいきます。

「今」によるアプローチで重要なことは、「今」をリアルタイムに近いタイミングで報せる「現報性」です。時間というプロセスの中で、あらゆるものは変化を続けています。こうした変化のプロセスを即時的に捉え、アウトプットされた本は、読者に対して「現在進行形」を伝える価値を持つことになります。

タイムリーな成果物は、時間の経過とともに過去のものとなっていきます。しかしこうした特徴は、「今」によるアプローチの価値を減らすものではありません。問題は「何を優先するか」であって、「どちらが優れているか」ではありません。優劣や善悪、価値の多寡ではなく、「その方法が必要かどうか」という観点で選択するべきでしょう。

本というのは重いメディアです。タイムリーなアプローチによって、本の重いメディアという性質が変わることはありません。それでも、「今」によるアプローチによって、インターネットのような軽いメディアのあり方に少しばかり近づくことになります。それは、「本」という形態の新しい可能性を切り開くものです。