「企画書」とは何か?

このように「企画書」は、1次的には本というモノの「商品的な土台」を確立するために使用される。

編集者は、事前に本の「完成イメージ」を作成し、制作に携わる人との間でイメージの共有を行う必要がある。それは、「何も作らない」編集者が「本を作る」人の間に立ち、進むべき方向と形を明確にするための事前準備と言ってよいと思う。そしてこの「完成イメージ」の共有に使用するもっとも重要なツールが、「企画書」である。

編集者は企画書を作成し、それをもとに、すべての制作者との間でイメージを共有する。企画書の内容に不備や理解しづらい箇所があれば、それは共有に支障をきたすし、誰か、もしくは全員が、異なる方向を向いて歩きだすということにもなりかねない。企画書は交通整理の基準であり、すべての参加者が持つべきルールブックである。

本の「企画書」の場合、例えば次のような要素が必要になる。

  • 書名
  • 体裁(判型/ページ数/本文色)
  • 発行時期
  • 予定部数
  • 予定価格
  • 対象読者
  • 概要
  • 目次
  • 採算見積もり
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視覚的/物語的/商品的

本の完成イメージを作り上げることは、本を1つのパッケージとして考え、様々な側面からシミュレーションしてみることだといえる。

本の完成イメージは、机上の空論である。いまだ何の手がかりもないところから、完成した本の全体をイメージし、制作に携わるすべての人の間でそれを共有する。見えないものを共有するのは難しい。いまだ、文章も、デザインも、写真もできていない状態で、本という形あるモノをイメージしなければならないのだ。この完成イメージは、視覚的、物語的、商品的という3つの側面から検討することができる。

視覚的なイメージには、例えば本のサイズやページ数、厚さ(束幅)、紙の色、フォント、本文のデザイン、カバーのデザインなどがある。これらは本を視覚的に構成する要素群で、サイズのように数値で表現できるものもあれば、デザインのように数値では表現できず、紙の上、もしくは頭の中でラフを描いてみることでしかシミュレーションできないものもある。

物語的なイメージを担うのは、目次構成である。目次は台割と呼ばれ、本全体の筋書きがそこに表現されている。筋書きはページと対応づけられ、台割を見ることによって、ページをめくり、読んでいくという読者の体験をシミュレーションすることができる。小説に限らずすべての本には筋があり、ページの進行とともにストーリーが進んでいく。

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「編集」とは何か?

編集者は確かに本を作っているけれど、その中に編集者が自ら作り出したと言えるものは1つもない。

「編集って、どんな仕事をしているんですか?」と聞かれても、それに対してうまく答えるのは難しいものだと思う。編集という仕事は、そのほかの多くの仕事と同じく、地道で、具体的で、明確なものだけれど、こと「編集」という名がつくと、それはひどく曖昧で、抽象的な概念に変化してしまうからだ。けれど、だからこそ編集という仕事は面白いし、どのような仕事にも見てとることのできる、汎用的な役割なのだと思っている。

「編集」という行為は文字通り、「集めて編む」ことだと言える。「編む」は、「整理してまとめる」と言い換えてもよいだろう。「本の編集」の場合、その対象は文章だったり、写真だったり、紙だったり、デザインだったりする。それらの要素を編集者は集め、整理してまとめ、「1冊の本」としてアウトプットする。

編集者は確かに本を作っているけれど、その中に編集者が自ら作り出したと言えるものは1つもない。編集者は、文章や写真、デザイン等を作る人を見つけてくる。そして、その人たちが作ったものを集め、整理してまとめ、本にする。本を作る人たちが交差する中心に立ち、交通整理を行うのが 編集者の役割なのだ。

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記憶/忘却/執着

それは、過去に経験した多くの事例から算出される、予言的な先読みの能力と言える。

「忘れてみること」「知らないふりをしてみること」。人は、経験を積めば積むほど、次に何が起こるのか、次に何をすればよいのかがわかってくる。先を見通す能力は、仕事や生活を営む上で大きなメリットになる。問題が発生する前に手を打ち、最善の策を取る。それは、過去に経験した多くの事例から算出される、予言的な先読みの能力と言える。

こうした能力には大きなメリットがあるが、デメリットもある。例えば、「可能性が制限される」。常に過去を参照し、そこから未来を予測する。予測した未来から逆算して、現在行うべきことを考える。その結果、人は過去と未来から想定される範囲内でしか、行動することができなくなる。そして、想定外の出来事が起こる可能性を、未然に潰してしまう。

また、「未知の現実に対処できなくなる」。過去の経験に固執し、自分の経験に頼って現在の問題に対処しようとする人は、未知の状況に直面すると、参照可能な過去を見つけることができない。そのため、過去から未来を予測して現在行うべきことを逆算することができず、結果、何をすればよいのかわからなくなってしまう。

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写真集「HOME」のこと⑤

土楼は客家を抱き込み、客家は自身の心に中原を抱き込む。

2019年の11月。大阪の書店「blackbird books」さんを訪問した折、店主の吉川さん、写真家の中村さん、僕の3人で、写真集「HOME」の話をしていた。その時、中村さんが次のようなことを話していた。「当時の彼らには、土楼に皆が戻ってきて、そこでまた一緒に暮らせる日が来るという淡い期待がまだ残っていたと思うんですよ。」。「当時の彼ら」というのは、中村さんが「HOME」に収録されている写真を撮影した、2006年から2008年にかけての客家の人々のことである。

2019年の夏、中村さんは、10年ぶりに福建の客家と客家土楼を訪れた。写真集を完成させるにあたって、客家と客家土楼の現在を見ておきたいということだった。かつて訪ねた土楼を再訪し、写真を撮影した人の中にはすでに亡くなっている人もいたが、幾人かの人とは再会することができた。帰国した中村さんは僕に、10年前に感じた客家の人々の力強い印象が、今回は感じ取れなかったと話してくれた。

客家は、戦乱を逃れて中華文明発祥の地である中原を追われた人々で、漢民族のルーツであると言われている。彼らの一部は福建の山奥に定住したが、その後も中原を忘れることなく、自分たちのルーツを保持し続けることを選んだ。客家とは、失われた故郷としての中原という幻想を、現実として生きてきた人々であると言える。

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