写真集「HOME」のこと④

客家という言葉の中では、本来は相容れないはずの隣人が同居し、互いに軋みをあげているのだ。

「HOME」という写真集は、「客家」と呼ばれる人々のポートレイトと、その住居である「客家土楼」の写真から構成されている。中村治さんの話を聞くまで、僕は客家という人々の存在も、客家土楼という建物があることも知らなかった。そして中村さんに「客の家」と書いて「はっか」と読むのだと教えられたとき、 僕の中で「客家」という言葉が俄かに騒めいた。

家には主人がいる。つまり主の家である。それが当たり前であるはずなのに、客の家というのはどういうことなのだろう? 家がある。その家には主人はおらず、客しかいない。客しかいない家? 客家という言葉は、「客」と「家」という2つの交わらない文字を、1つの言葉のうちに孕んでいる。客家という言葉の中では、本来は相容れないはずの隣人が同居し、互いに軋みをあげているのだ。

客家には、「客家土楼」という特異な家がある。はじめて客家土楼を見た時の印象を、中村さんは「空間にいきなりコップがゴンって置かれているような」と称した。それは土楼という存在の、周囲から自らを疎外する違和の感触を言い表している。その土地の土地性から外れた異様な存在。いきなり現れた異質な建造物。それが客家土楼であり、そこに住む客家と呼ばれる人々の存在なのだ。

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商品/金銭/疎外

疎外は商品が商品として存在するための、必須の条件といえるのだろうか?

本は商品である。商品とは売り買いの対象であり、その売り買いは、金銭と商品との交換によって行われる。商品には売り手によって価格がつけられ、買い手がその金額を妥当と考えれば、取引は成立する。売り手のもとには金銭が残り、買い手のもとには商品が残る。取引において本と金銭は、売り手と買い手の双方にとって等価でなければならない。

そしてその本もまた、様々な商品と金銭との交換を経て、商品としての完成へと至っている。紙、印刷、製本、デザイン、執筆などなど。出版社は、紙と金銭の交換を、印刷と金銭の交換を、製本と金銭の交換を、デザインと金銭の交換を、執筆された著作物と金銭の交換を行い、最終的に、その手には「本」という商品が残されることになる。

それでは、その手に残された本という商品は、もはや紙や印刷、製本、デザイン、執筆を担った企業ないしは個人と、もはや無関係なのだろうか? 金銭と商品を交換した以上、金銭を手にした者は、もはや金銭以外の何物も持ってはいないのだろうか? 実体としての商品や、数字としての金銭、法律としての権利のことだけを考えれば、おそらくそうであろう。商品は、疎外されることによってはじめて商品足りえるのだ。

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写真集「HOME」のこと③

中村さんの目が何を湛えているのか、僕にとって、それは1つの不思議だった。

写真家の中村治さんにはじめて会ったとき、なにより印象に残ったのは、中村さんの「目」だった。中村さんがどのような表情で僕を迎えてくれたのか、今となっては定かでない。中村さんのことだから、少しはにかみながら、邪気のない笑顔で僕を迎えてくれたのだろう。けれど、中村さんの目が印象的だったことは、今でもよく覚えている。中村さんの目は、表面に現れ出た笑顔とは異なる不思議な何かを、その奥に湛えていたように思うのだ。

不思議というのは、思議ができない、すなわち「わからない」ことを意味している。はじめの頃、僕は中村さんの目に何を読み取ってよいのかわからず、ちょっとした怖さを感じた。中村さんの目が何を湛えているのか、僕にとって、それは1つの不思議だった。「わからない」ことは、信仰の対象になりうる。「わからない」ことは、それ自体が価値なのだ。

写真家は「見る」ことを生業とする職業だ。写真家は、カメラのレンズを通して世界を、人を見る。「見る」という行為の背景には、写真家の「意識」がある。シャッターが押されるとき、そこでは写真家の「見る」と「意識」、2つの運動が重なり合っている。写真家は「意識」することによって「見る」。そして「見る」ことによって「意識」する。写真家にとっての「現実」は、写真家の「意識」と「見る」相互のフィードバックが作り出した「現実」である。そして「見る」と「意識」、「現実」が互いに共鳴し合う中、残響のようにして生み落とされるのが写真なのだ。

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「選択」について

選択の準備は、それよりずっとずっと前から始まっている。

「どうして出版を始めたんですか?」と聞かれることがある。それは言われてみればもっともな疑問で、世の中に「出版をやろう」と考えるような人はそれほど多くはない。どころか、ほとんどいないのではないかと思う。だから「出版を始める」という話は、多くの人に、驚きをもって受け取られることになる。

人が何かを始める理由として、「ある人との運命的な出会いから」とか、「長年の夢で」とか、「お金を儲けたくて」のように、なにか特別な出来事や目的があると、説明する上でわかりやすい。けれども今回出版を始めるにあたって、このようなわかりやすい理由は特にない。「自然に」「なりゆきで」「なんとなく」といった、「この人適当なんじゃないだろうか?」と思われる言葉しか返すことができなかったりする。

とはいうものの、入学、就職、転職、結婚…といった人生の一大イベントにおいて、わかりやすい大義名分を説明できる人はどのくらいいるのだろう? 人が何かを選択するにあたって、選択の準備は、それよりずっとずっと前から始まっている。1つの選択は、長い時間と幾多の経験を経た先に、ちょっとしたきっかけでぽっと表に現れ出て、すぐにまた潜り込んで見えなくなってしまう。そのようなものではないだろうか。

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普通の人/小さな人

LITTLE MAN BOOKSは、自分を縮小していく意志を持っている。

「LITTLE MAN BOOKS」という名前は、とある中欧の映画のタイトルからつけられている。その映画は、わかりやすくて、小さくて、普通で、奇妙で、大きくて、わかりにくくて、そして、とても大事なことを伝えてくれる映画だった。「LITTLE MAN」という言葉は一見すると「小さい人」と訳しそうなものだけれど、LITTLE MAN BOOKSではこれを「普通の人」という意味で使っている。

けれども、「普通の人」というのはいったい何だろう? 人はそれぞれ皆、唯一無二の「特別な人」なのではないだろうか? 性別、職業、学歴、収入、地位、住んでいる場所、育った環境などによって。また性格、考え、能力、嗜好、身体などによって、人は自分を他とは違う人間として認識する。

人は、自分を他人に対して「特別」だと考えることで、自分という存在の輪郭を確かなものにしようとする。自分を他の人よりも高く見ることで優越感を、他の人よりも低く見ることで劣等感を得る。それは、自分だけでなく、他人を見るときの基準としても採用される。そして、その差を大きくすることで、自分が他人とは異なる価値を持っていると考えるようになっていく。

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