記憶/忘却/執着

それは、過去に経験した多くの事例から算出される、予言的な先読みの能力と言える。

「忘れてみること」「知らないふりをしてみること」。人は、経験を積めば積むほど、次に何が起こるのか、次に何をすればよいのかがわかってくる。先を見通す能力は、仕事や生活を営む上で大きなメリットになる。問題が発生する前に手を打ち、最善の策を取る。それは、過去に経験した多くの事例から算出される、予言的な先読みの能力と言える。

こうした能力には大きなメリットがあるが、デメリットもある。例えば、「可能性が制限される」。常に過去を参照し、そこから未来を予測する。予測した未来から逆算して、現在行うべきことを考える。その結果、人は過去と未来から想定される範囲内でしか、行動することができなくなる。そして、想定外の出来事が起こる可能性を、未然に潰してしまう。

また、「未知の現実に対処できなくなる」。過去の経験に固執し、自分の経験に頼って現在の問題に対処しようとする人は、未知の状況に直面すると、参照可能な過去を見つけることができない。そのため、過去から未来を予測して現在行うべきことを逆算することができず、結果、何をすればよいのかわからなくなってしまう。

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写真集「HOME」のこと⑤

土楼は客家を抱き込み、客家は自身の心に中原を抱き込む。

2019年の11月。大阪の書店「blackbird books」さんを訪問した折、店主の吉川さん、写真家の中村さん、僕の3人で、写真集「HOME」の話をしていた。その時、中村さんが次のようなことを話していた。「当時の彼らには、土楼に皆が戻ってきて、そこでまた一緒に暮らせる日が来るという淡い期待がまだ残っていたと思うんですよ。」。「当時の彼ら」というのは、中村さんが「HOME」に収録されている写真を撮影した、2006年から2008年にかけての客家の人々のことである。

2019年の夏、中村さんは、10年ぶりに福建の客家と客家土楼を訪れた。写真集を完成させるにあたって、客家と客家土楼の現在を見ておきたいということだった。かつて訪ねた土楼を再訪し、写真を撮影した人の中にはすでに亡くなっている人もいたが、幾人かの人とは再会することができた。帰国した中村さんは僕に、10年前に感じた客家の人々の力強い印象が、今回は感じ取れなかったと話してくれた。

客家は、戦乱を逃れて中華文明発祥の地である中原を追われた人々で、漢民族のルーツであると言われている。彼らの一部は福建の山奥に定住したが、その後も中原を忘れることなく、自分たちのルーツを保持し続けることを選んだ。客家とは、失われた故郷としての中原という幻想を、現実として生きてきた人々であると言える。

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写真集「HOME」のこと④

客家という言葉の中では、本来は相容れないはずの隣人が同居し、互いに軋みをあげているのだ。

「HOME」という写真集は、「客家」と呼ばれる人々のポートレイトと、その住居である「客家土楼」の写真から構成されている。中村治さんの話を聞くまで、僕は客家という人々の存在も、客家土楼という建物があることも知らなかった。そして中村さんに「客の家」と書いて「はっか」と読むのだと教えられたとき、 僕の中で「客家」という言葉が俄かに騒めいた。

家には主人がいる。つまり主の家である。それが当たり前であるはずなのに、客の家というのはどういうことなのだろう? 家がある。その家には主人はおらず、客しかいない。客しかいない家? 客家という言葉は、「客」と「家」という2つの交わらない文字を、1つの言葉のうちに孕んでいる。客家という言葉の中では、本来は相容れないはずの隣人が同居し、互いに軋みをあげているのだ。

客家には、「客家土楼」という特異な家がある。はじめて客家土楼を見た時の印象を、中村さんは「空間にいきなりコップがゴンって置かれているような」と称した。それは土楼という存在の、周囲から自らを疎外する違和の感触を言い表している。その土地の土地性から外れた異様な存在。いきなり現れた異質な建造物。それが客家土楼であり、そこに住む客家と呼ばれる人々の存在なのだ。

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商品/金銭/疎外

疎外は商品が商品として存在するための、必須の条件といえるのだろうか?

本は商品である。商品とは売り買いの対象であり、その売り買いは、金銭と商品との交換によって行われる。商品には売り手によって価格がつけられ、買い手がその金額を妥当と考えれば、取引は成立する。売り手のもとには金銭が残り、買い手のもとには商品が残る。取引において本と金銭は、売り手と買い手の双方にとって等価でなければならない。

そしてその本もまた、様々な商品と金銭との交換を経て、商品としての完成へと至っている。紙、印刷、製本、デザイン、執筆などなど。出版社は、紙と金銭の交換を、印刷と金銭の交換を、製本と金銭の交換を、デザインと金銭の交換を、執筆された著作物と金銭の交換を行い、最終的に、その手には「本」という商品が残されることになる。

それでは、その手に残された本という商品は、もはや紙や印刷、製本、デザイン、執筆を担った企業ないしは個人と、もはや無関係なのだろうか? 金銭と商品を交換した以上、金銭を手にした者は、もはや金銭以外の何物も持ってはいないのだろうか? 実体としての商品や、数字としての金銭、法律としての権利のことだけを考えれば、おそらくそうであろう。商品は、疎外されることによってはじめて商品足りえるのだ。

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写真集「HOME」のこと③

中村さんの目が何を湛えているのか、僕にとって、それは1つの不思議だった。

写真家の中村治さんにはじめて会ったとき、なにより印象に残ったのは、中村さんの「目」だった。中村さんがどのような表情で僕を迎えてくれたのか、今となっては定かでない。中村さんのことだから、少しはにかみながら、邪気のない笑顔で僕を迎えてくれたのだろう。けれど、中村さんの目が印象的だったことは、今でもよく覚えている。中村さんの目は、表面に現れ出た笑顔とは異なる不思議な何かを、その奥に湛えていたように思うのだ。

不思議というのは、思議ができない、すなわち「わからない」ことを意味している。はじめの頃、僕は中村さんの目に何を読み取ってよいのかわからず、ちょっとした怖さを感じた。中村さんの目が何を湛えているのか、僕にとって、それは1つの不思議だった。「わからない」ことは、信仰の対象になりうる。「わからない」ことは、それ自体が価値なのだ。

写真家は「見る」ことを生業とする職業だ。写真家は、カメラのレンズを通して世界を、人を見る。「見る」という行為の背景には、写真家の「意識」がある。シャッターが押されるとき、そこでは写真家の「見る」と「意識」、2つの運動が重なり合っている。写真家は「意識」することによって「見る」。そして「見る」ことによって「意識」する。写真家にとっての「現実」は、写真家の「意識」と「見る」相互のフィードバックが作り出した「現実」である。そして「見る」と「意識」、「現実」が互いに共鳴し合う中、残響のようにして生み落とされるのが写真なのだ。

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