「企画書」とは何か?

このように「企画書」は、1次的には本というモノの「商品的な土台」を確立するために使用される。

編集者は、事前に本の「完成イメージ」を作成し、制作に携わる人との間でイメージの共有を行う必要がある。それは、「何も作らない」編集者が「本を作る」人の間に立ち、進むべき方向と形を明確にするための事前準備と言ってよいと思う。そしてこの「完成イメージ」の共有に使用するもっとも重要なツールが、「企画書」である。

編集者は企画書を作成し、それをもとに、すべての制作者との間でイメージを共有する。企画書の内容に不備や理解しづらい箇所があれば、それは共有に支障をきたすし、誰か、もしくは全員が、異なる方向を向いて歩きだすということにもなりかねない。企画書は交通整理の基準であり、すべての参加者が持つべきルールブックである。

本の「企画書」の場合、例えば次のような要素が必要になる。

  • 書名
  • 体裁(判型/ページ数/本文色)
  • 発行時期
  • 予定部数
  • 予定価格
  • 対象読者
  • 概要
  • 目次
  • 採算見積もり

これに前回の「視覚的/物語的/商品的」を当てはめてみると、次のようになる。

  • 書名【商品的】
  • 体裁(判型/ページ数/本文色)【視覚的】
  • 発行時期【商品的】
  • 予定部数【商品的】
  • 予定価格【商品的】
  • 対象読者【商品的】
  • 概要【商品的】
  • 目次【物語的】
  • 採算見積もり【商品的】

企画書は、本の制作を始める前に、出版社内の企画会議に提出される。そこで企画書は、本の「完成イメージ」を社内で共有し、そのイメージに無理や齟齬がないか、商品として成立し得るか、制作を始めてよいかどうかの判断を行う資料として利用される。

会議で承認が得られた企画書は、次に、本の制作者たちの間で「完成イメージ」を共有するための資料として利用される。会議にかけられる企画書が社内資料であるのに対し、こちらは社外資料ということになる。しかし「完成イメージ」を正確に伝達し、共有するための資料という意味では、社内/社外で、企画書の役割に違いはない。

先の「視覚的/物語的/商品的」を当てはめた例を見るとわかるように、企画書のほとんどの要素が、「商品的」な項目となっている。それは、企画書の上では本があくまでも1個の「商品」であることを前提とし、その上で視覚的、物語的な要素が2次的に決められていくということを意味している。商品としての土台が固められない限り、本の制作を始めることはできないのだ。

例えば「視覚的」な「体裁」にしても、それは「商品的」な「採算見積もり」のバランスの上で成立するものであるし、「商品的」な「対象読者」や「予定価格」に見合ったものになっている必要がある。また「物語的」な「目次」にしても、 「商品的」な 「対象読者」や「概要」に記載される「背景」や「ニーズ」を明確にした上でなければ、検討することはできないはずだ。

このように「企画書」は、1次的には本というモノの「商品的な土台」を確立するために使用される。この「商品的な土台」が確立されてはじめて、「視覚的」「物語的」な要素が検討可能になるのだ。

しかし、もしそうだとすると、ここまで延々と繰り返してきた企画書による「完成イメージの共有」とは、「商品としての本」のイメージを共有することに等しいのだろうか。完成イメージとは、商品としての辻褄合わせであり、それ以上でも以下でもないのだろうか。答えは、是でもあり、否でもあるように思う。  

否である理由の1つとして、完成イメージが「逸脱するべきもの」として想定されているということがある。企画書は制作前の見取り図であって、制作に携わる人たちの可能性を掘り下げたものではない。企画書は決められた目的地に到達するためのものではなく、出発のための指針に過ぎない。企画書は土台であるが、その平面上には様々な可能性(混乱やアクシデントも含め)が広がっている。 企画書を逸脱したとき、「本」はそこではじめて、あらかじめ定められた「商品」からはみ出した価値を持つことになる。

企画書は地図を描くが、地面を歩くのは人間である。 制作の中で、企画書の枠内に本を「収める」のではなく、「はみ出させる」こと。予定していた軌道を逸れ、思いもかけない地点に到達する可能性を許容し、模索し続けること。企画書は旅のガイドにすぎないのであって、実際の旅程がその通りに進むことなど、あるはずがないのだから。

2020/1/14
littlemanbooks.net