整理/補完/肯定②

補完とは、水平的な編集作業であった「整理」を行う場に、垂直に近い形で投下される「投げ込み」であって、それは現在の状況に対する「疑問/仮説/検証」を行うものとなる。

整理が、ある特定の水平の盤を舞台にした安定的な編集の作業であったとすると、補完は盤上の構成要素や、ゲームのルールそれ自体に問いを投げかける、よりドラスティックな編集作業であると言える。

補完はその名の通り、現在盤面に置かれている、つまりコンテンツの候補として俎上に載せられている要素群に「不足している要素」を補完する作業である。しかしその操作は、単に足りないものを補うということではなく、現在の盤面の状態そのものを揺れ動かす形で行われる。

その意味で補完とは、水平的な編集作業であった「整理」を行う場に、垂直に近い形で投下される「投げ込み」であって、それは現在の状況に対する「疑問/仮説/検証」を行うものとなる。整理が「そこにあるもの」に対する操作であるのに対して、補完は「そこにないもの」を提起する操作である。

そして、補完は否定ではない。次の「肯定」で示されるように、編集者の基本的な姿勢は「肯定」である。否定は現状を否認するが、補完は現状に対して疑問を提起する。補完は現状を見直す契機となることを意図しているのであって、断定や拒絶、結論とは無縁の操作なのだ。

補完の作業では、現状に対して疑問を提示するとともに、仮説を立てる。仮説とはゲームのバリエーションである。仮説は1つの「試み」であって、異なる側面からの観察である。仮説を立てない疑問は、否定に限りなく近いものとなる。疑問と仮説はセットで提案されなければならない。

仮説によって提示されるバリエーションに、絶対的な「正解」はない。バリエーションに正解はないが、どちらが「よりよいか」「より悪いか」という相対的な判断はある。この判断は、無数に立てられる仮説に対する検証の作業として行われる。「疑問/仮説/検証」は、常にセットで行われるべき編集の作業である。

「疑問/仮説/検証」は、具体的に2つのアプローチによって行われる。1つは単独の駒の投入。もう1つはゲームのルールに対する疑義である。単独の駒の投入は、既存の要素群に新しい要素を投げ入れることによって、水平面の動揺を促す操作である。ルールに対する疑義は、要素群をまとめている条件そのものに疑問を投げかけることによって、水平面の動揺を促す操作である。

それまで盤面になかった駒を投入すると、その新しく導入された要素によって、既存の要素の配置に変化が生まれる。ひとつの変化は波紋のように複数の要素の変化へと波及し、配置全体の更新を迫ることもある。投入される駒によっては、盤面の風景ががらりと変貌することもありうる。そしてその変貌した風景、すなわち仮説に対して、検証が行われる。

ルールに対して疑義を投げ込むと、盤面はいったんひっくり返され、その上に置かれていた要素は床に散乱する。これまで積み上げてきた要素の配置は別のルールによって見直され、新しい仮説として組み立て直される必要が生まれる。そしてその組み立て直された仮説に対して、検証が行われる。

駒の投入も、ルールに対する疑義も、それはあくまでも仮説でしかない。編集者はそれを「正しい」と信じて行っているわけではない。「正しい/間違い」という真偽の判断とは無縁の場所で、無数の「たられば」を試し、「よりよい世界」がそこから現れれば儲けもの、という言わば1つの跳躍として行われるのが補完の作業であると言える。

「補完」の意味は、「現在不足している要素を仮説によって補うこと」という意味のほかに、著者という「本の制作の主体」に対する、「外部/第三者からの視点の導入」という意味での補完という意味も持つ。著者は本の作者であるが、そこには外部/第三者からの視点が不足している。これを補完することが、編集者の役割なのだ。

編集者は正解を言う必要は毛頭ない。むしろ「これは絶対にないだろう」と思われる提案でさえも、編集者は積極的に行うべきである。考えられる可能性を隈なく探索しつくすことが、編集という仕事においては重要になる。

こうした「疑問/仮説/検証」を繰り返すことで、盤上の要素群には大小の変更が加えられていく。そのうち、提起された仮説とも、現状の盤面とも、どちらとも異なる新たな局面が水平面に浮かび上がり、著者と編集者によって発見される。新しい世界は、提起されるのではなく、「発見」されるのだ。

補完では、要素の削除が積極的に行われることはない。編集において、削除という操作は「結果的に」起こるものであって、能動的な行為としては選ばれない。削除は否定に基づくものであって、編集者は可能な限り否定から離れてあるべきだからだ。否定ではなく疑問、そして仮説と検証が、編集者の行うべき操作となる。

補完はまた、最初から補完として行われるのではない。それは足りない要素を補う作業ではあるけれど、要素の 直接的な 「追加/削除」ではない。「疑問/仮説/検証」という一連のプロセスを通じて、「結果的に」補完が行われ、「よりよい」完成イメージへと近づいていく。「疑問/仮説/検証」の結果として、補完という操作、および編集者という存在が間接的に見出される。補完は後から発見されるのである。

2020/1/31
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