僕たちは、かつて町のいたるところに空き地を持っていた。そこは土管こそなかったかもしれないが、誰のものでもないような、誰が入ってもよいような、名前のない、匿名的な場所として放置されているように見えた。
「本を作る」という行為が、企画書によって提示された枠組みを逸脱するものであるという条件下で、編集者はいったいどのような振る舞いをすればよいのだろうか? 現在は、新しい現在によって不断に更新され続ける。現在は過去となり、未来は現在となって、さらに過去へと押し流されていく。プロセスとは、こうした時間的な流動体であった。企画書は、いわば企画書が作成された過去と、企画書がイメージとして提示する未来という2つの時間を、1つの文書という現在に定着させたものであるといえる。
企画書には、企画書を見ている現在、企画書が作成された過去、本の完成イメージとしての未来が、三層のレイヤーとして重ねられてある。企画書の過去には、プロセスとしての現在によって、顕在的/潜在的に更新が加えられていく。企画書の未来もまた、同様に更新が繰り返されていく。このような動的なプロセスの中で編集者は、企画書に刻印された「過去/未来」と、プロセスのただ中にある「現在」とを参照し合い、その揺動する振り幅を、じかに感じ取らなければならない。
この、編集者が時間軸の中で感じ取る行為には、
- 過去/未来に照準を合わせる/照準を外す
- 過去/未来を思い出す/忘れる
- 過去/未来を肯定する/疑問を付す
が含まれている。編集者は時間の推移の中で、文章や写真、デザイン、人といった空間的な振り幅を常に編集し続けなければならない。具現化されたこれらのアウトプット、およびその集積であるところの完成イメージは、時間軸に沿って刻々と変化する。人の意思は無軌道に逸れ、人が人の意思を完全なコントロール下に置くことなどできるはずがない。このような「人」の不確定性の中、基準としての「企画書」の上には、本の制作に携わる人たちからの「アウトプット」が積み重なって、基準そのものに変化を促していく。
これらのアウトプットは、企画書を基準としながらも、企画書の内容にその輪郭を完全に一致させることはあり得ない。それは、企画書によって提示されたイメージを変形させ、部分的/全体的な縮小または拡大を伴うものとなる。イメージの変形は、そのまま価値の変形に一致するのであり、編集者はその変形された価値に対してなにがしかのアクションを起こすことで、コントロールもしくはノットコントロールの決断を下す。これが、編集という行為そのものである。
企画書の内側には、局地的な余白が至るところに空いている。また企画書がフォローする範囲の外側には、無限の余白が広がっている。町中に点在する空き地。および、見える範囲を超えたところに広がる無限の世界。時間軸が進むに伴い、企画書という平面の上に積み重なるアウトプットの集積は、企画書に空いた余白を埋め、企画書の見える範囲を超えてはみ出していく。企画書内と外の余白が、無軌道な現在の中で埋められていくのだ。そしてこの「埋める」運動は、新たな余白と、外と内とを隔てる輪郭線とを生み出していく。
世界とは、「空き地」としか呼びようのない、名のない場所としての世界であり、また「外」としか呼びようのない、未知の場所としての世界である。編集者はこうした余白(余地)を前にして、手持ちの地図、すなわち企画書からの「ずれ」を確認し、現在の逸脱が、定着された過去/想定された未来との参照の上で、どのような価値を持つのかを判断する。
編集者が価値判断をどのように行うかは、その編集者がゴールに見据える本の完成イメージに準拠する。しかしその完成イメージは、人との密な関わりによって影響を被り変化する。編集者に問われるのは、こうした変化にいかに対応できるかである。状況の変化に適応し、その渦中で、自在に地図を組み替え、境界を作り替えながら、本来の目的であるところの本の完成、本としての生き残りを図らなければならない。それは時間軸の中での生き残りの策であり、そのための方法として必要となるのが、空間的な編集の作業なのだ。
僕たちは、かつて町のいたるところに空き地を持っていた。そこは土管こそなかったかもしれないが、誰のものでもないような、誰が入ってもよいような、名前のない、匿名的な場所として放置されているように見えた。所有の不明瞭さが、自由の証となっていた。僕たちはまた、ビルの屋上に上がって見える範囲よりも外の世界を知らなかった。見えない場所は存在しない世界であり、見える場所だけが世界だった。そして、移動とともに見える範囲は拡大し、しまいには、知識によって見えない世界を世界として認識できるようになった。
こうした空き地や見える場所(内なる世界)と見えない場所(外の世界)で、僕たちは、時間を忘れて過ごすことができた。そこは地図では表現することのできない、非空間的な世界であり、時計で表現することのできない非時間的な世界だった。空き地は無限の広がりを見せる巨大な「世界」そのものだったし、見える場所/見えない場所の境界は、僕たちにとってそれが「世界」と呼ばれるもののすべてだった。非空間的/非時間的な世界とは、おおよそ内的な世界であって、そこに物理的な制限はいささかも存在しなかったのだ。
しかし、こうした空き地や外の世界は、外的、内的な要因によって、いつか終わりを迎える。そのいつかとは、知識によってか、移動によってか、成長によってか、人との関わりによってか、システムの変更によってか。いずれにしても、何か決定的な出来事が、それらの認識に、幼年時代の終わりをはっきりと告げ知らせる。空間的諸要素は時間的な推移によって後戻りのできない変化を受け、新しい世界の様相を見せる。そしてその様相には、過去と未来がともに内包されてある。編集とは、このまったき戦場で執り行われる生き残りの所作である。
2020/1/17
littlemanbooks.net