概念ドリブン

世界は、概念ドリブンとして生成される。概念は世界の反映ではなく、世界そのものである。

人は何かを考える時、契機となる何かを必要とする。思考を開始し、展開させる、そのためのトリガーとなるもの。思考を発動させるための機械、推進力を維持するためのモーター。思考が開始されるための端緒となり、そして継続的に展開し続けるための燃料の投入。その契機、回転し加速するエンジンとしての「概念」。契機としての「概念」によって、「駆動=ドライブ」すること。

プログラミングの考え方に、「イベントドリブン」というものがある。

「イベント駆動型プログラミング(イベントくどうがたプログラミング、英: event-driven programming)は、コンピュータプログラムが起動すると共にイベントを待機し、発生したイベントに従って受動的に処理を行うプログラミングパラダイムのこと。」(Wikipedia)

プログラムの処理が発生する、トリガーとしてのイベント。ボタンのクリックやタップといったイベントの発生を受けて、あらかじめ準備されたプログラムが走り始めること。このときプログラムは、イベントに対して受動的なポジションにある。同ページの定義には、

「起動後に指定のタスクのみを実行して即座に終了するような、直線的な制御フローを基本とするプログラミングパラダイムに対する概念。」(Wikipedia)

ともある。あらかじめ決められた始まりと終わりのある直線的なプログラムではなく、任意に発生するイベントに応じて展開されるプログラム。イベントドリブンにおいて、進行の道行きはダイナミックに変動し、展開はバリエーションを伴うことになる。そしてこの一文でもう1つ重要なことは、イベントドリブンが、プログラミングに関わる1つの「パラダイム」、すなわち世界に対するものの見方、考え方であるということだ。

思考が駆動するためのトリガーとなる要因、ドリブンの端緒となる要因を仮にAとするならば、Aという要因によって思考を駆動する機構を「Aドリブン」と呼ぶことができる。先のイベントドリブンは、思考をプログラムに置き換えるならば、その1つの例であった。そして今回のブログ記事の見出しとなっている「概念ドリブン」とは、「概念」によって思考を駆動させる機構、そして、その価値が依って立つところのパラダイムそのものであると言える。概念ドリブンにおいて、トリガーとなるのは概念である。そして概念というトリガーによって駆動するのは思考である。概念ドリブンにおいて、思考は概念によって始まり、概念によって走らされる。では、概念とはいったい何か?

概念は、世界の何らかの事象を言葉によって表現したものである。ただしそれは、ある共通の特徴をもつ要素を概括的にまとめたものでなければならない。つまり、複数の個別的な事象に対して、汎用的に適用できるものでなければならない。概念は、世界の中である共通の特徴を持つ事象に対して与えられる「言葉」なのだ。また概念は、世界の中の事象をある共通の特徴によって区分する「枠組み」であるとも言える。概念は世界に意味を与え、区分する。世界は概念によって、「ものの見方」を形成される。

概念は、思考を駆動させる。思考が駆動すると、そこから言葉が生まれてくる。言葉が氾濫すると、溢れた言葉は次の概念へ接近する。概念が発見されるか創出されると、概念どうしは言葉によって接続される。概念どうしの結びつきは、世界にかけられる網の目である。世界は概念と、概念どうしの結びつきによって意味を与えられ、そこに体系が形成されていく。概念ドリブンはそれ自体がパラダイムであるとともに、ドリブンによってパラダイムを作り出していく生成の主体でもある。

概念ドリブンでは、言葉の意味を、また世界の意味を画定する。そしてその画定の方法には、画定した主体である、その人自身の思考の枠組みが反映されている。思考は概念によって規定され、概念は思考によって規定される。概念ドリブンとは、概念~言葉~概念の連関、そして、思考~概念の連関によって、世界に対するものの見方を規定するためのプロセスの名称なのだ。

「Aドリブン」のAに対応する要因は、「概念」のほかに様々なものがある。思考を発動・展開させるものであれば該当する。例えば、次のような「Aドリブン」が想起される。

・数値ドリブン
・感情ドリブン
・仮説ドリブン
・条件ドリブン
・形容ドリブン
・ペルソナドリブン
・利益ドリブン
・倫理ドリブン
・危機管理ドリブン

各ドリブンは、それぞれの要因Aに内在するルールに即して、思考を促していく。例えば数値ドリブンでは、統計情報や確率などの数字によって思考を展開していくし、感情ドリブンでは、怖い、不安、嬉しいといった感情が思考を促すための要因となる。仮説や条件といったドリブンでは、仮説を立てる、条件づけるといった状況設定、範囲画定の操作によって、思考に展開のための枠組みを与える。形容ドリブンはかっこいい、かわいい、やわらかい、オーガニックなどといった形容詞によって思考を惹起させ、ペルソナドリブンは、ある仮想された、もしくは実在の人物を想定し、その人物を軸にして思考が展開されていく。利益、倫理、危機管理は、思考の礎となる価値の基準を指し示している。利益ドリブンは利益の追求によって駆動するシステムであるし、倫理ドリブンは倫理観を基軸に駆動するシステムだ。危機管理ドリブンは、その内側で行われる思考のすべての基準を、「危機の回避や対応」に置いている。

こうした異なるドリブンは、ある1つの物事を異なる角度から切り取るという形で共に機能することはあっても、それぞれ異なるドリブンどうしが相互に交流する、コミュニケートするといったことは困難である。なぜならそれぞれのドリブンはそれぞれの「言語」および「価値」によって思考を体系化するのであって、異なる体系どうしが語り合うことは、異なる言語で話すのと同じく、困難な作業となるからだ。

ドリブンによっては近似の程度が異なり、近いドリブンと遠いドリブンはあるだろう。しかし、ドリブンが異なればそれは本質的に異なる言語なのであって、そこに相互のコミュニケーションを発生させるには、言語の翻訳に似た作業が必要となる。しかし言語の翻訳と同様、翻訳作業に完全な中立というものはなく、いずれかのドリブンを基準としてそこに別のドリブンを沿わせていく作業、つまり従から主への翻訳にならざるをえない。各ドリブンは独立した体系として存在し、それぞれの言語によってルール化されている。世界を読み解く仕組みは、それぞれの言語の内側でのみ展開可能な網の目なのだ。

それでも、例えば相手がどのようなドリブンに基づいて話をしているのかを知っておくこと、あるいはその場で相手のドリブンが何に依るものなのかを読み解くことは重要である。話がかみ合わないと感じられるとき、相手の話に違和感を感じるときなど、多くの場合、異なるドリブンに即して話をしていることが多い。相手のドリブンを知ることでその違和を完全に解決できるわけではないにしても、それでも互いのドリブンを知ったうえで話をすることは、相手の心理に内在する動機や思考の基軸となるものの理解を深めることになり、余計な不満や疑問を感じなくて済むという点で、また知っていることにより相手に対して優位に立てるという点で有益である。

ドリブンのAは、思考の発動と展開に関わるが、それは思考のそもそもの動機、モチベーションに一致する。動機のないところに、思考の発動は生まれないし、展開への希求も生まれない。そして、動機とは欲望である。欲望の対象としてのA。数値によって作動する思考の動機は数値であり、欲望の対象もまた数値である。感情は、感情を端緒とする思考の契機であり、欲望の対象でもある。Aドリブンは、A自らが欲望の対象となることによって自身を呼び起こし、自身を燃料として駆動する自動機械なのだ。数値は欲望によって数値を呼び起こし、感情は欲望によって感情を誘発する。仮説ドリブンは、仮説を立てるという動機に基づいて起動し、最終的に仮説の内容が実現され(仮説でなくなり)、その正誤が明らかになるまで、その展開と検証は継続される。仮説ドリブンは、仮説に対する執着に依拠している。ドリブンは、more and moreを喚起させる。課題の解決や障害の発生といったなんらかの原因により終焉を見るまで、欲望の強度はエスカレートしていく。

思考の発動と展開~欲望の対象というこの連関は、当然、概念ドリブンにおいても適用される。概念ドリブンにおいて、思考は「概念」というトリガーによって発動し、展開する。この発動と展開は、「概念への欲望」に依拠している。概念による駆動システムは、概念に対する欲望に基づいて発動され、展開される。この「概念への欲望」は、「世界を理解することへの欲望」に直結する。概念によって、すなわち言語によって、世界を理解したいという欲望が、概念ドリブンの燃料である。概念ドリブンは、言語によって世界を理解しようとする思考のサイクルなのだ。思考は少なからず、世界を理解したいという欲求をその動機として有している。しかし概念ドリブンは、そのサイクルが言語以外の何ものにも依っていないという点で、そのほかのドリブンとは一線を画している。

例えば数値ドリブンが数値を含むように、感情ドリブンが感情を含むように、ドリブンの多くは、言語以外の要因を参照するものである。感情や数値は、言語に基づく思考のサイクルの内側から参照される「外部」なのだ。仮説や条件、ペルソナといった「言語によって指示される対象」をAとするドリブンもまた、その指示される対象は状況や範囲、人物であって、それらは「言語によって指示される、言語ではない対象」を措定している。しかし概念ドリブンにおいては、「言語によって指示される対象」もまた言語である。言語によって指示される対象は言語であり、それ以外ではない。概念ドリブンの思考の動機、欲望の対象は、概念ドリブンの内側にあるところの概念、すなわち言語なのだ。

概念による思考のサイクルは、感情や数値、状況、範囲といった、言語以外の外的対象を参照することなく、ただ「言語という領域の内側」で、そのサイクルを全うする。そのほかのドリブンはその動機に言語以外の要因を持ち、言語を使って思考をしながらも、いずれはその動機であるところの「言語以外の領野」へ帰りたいという欲求を持っている。これがいわゆる「具体」である。しかし概念ドリブンにおいて、思考は概念の領野の内側を旋回し続ける。言語による、言語に対する欲望の顕示。これは「抽象」であり、それこそが、概念ドリブンの本質である。

概念ドリブンは言語の領域にとどまりながら、言語の領域によって世界を理解しようとする試み、欲望である。概念ドリブンは、その働きによって新たな概念を産出する。また概念とも言えない程度の言葉を多産する。概念を、言葉をひたすらに生産し、その体系化の試みによって世界を創出する。概念ドリブンの働きは、「言語による世界の生成」に一致する。

概念ドリブンにとって、言語は世界を理解するためのツールなのではない。そうではなく、理解される世界そのものが、概念ドリブンなのだ。世界は、概念ドリブンとして生成される。概念は世界の反映ではなく、世界そのものである。世界は概念から生まれ、規定される。そしてその規定を自ら破壊するのもまた、概念である。概念は概念によって生産され、破壊され、また意味を変形させられる。概念の自燃機関が、新しい概念をまき散らしながら、また既存の概念を破壊したり変形したりしながら、あたりを駆け回る姿が見えるだろうか。 自動 で動き回る、芝生の上の芝刈り機のように。芝刈り機は、芝を刈りながら、刈ったその時、すでに芝を植え付けていく。植え付けられた芝は伸びてはまた刈られ、そしてまた植え付けられ、伸びていく。

概念ドリブンは概念以外への欲望を持たないがゆえに、より世界に近いところにいる。概念ドリブンは、世界への欲望に忠実に一致する。世界とは、言語によって駆動する思考、まさにそのものにほかならないからだ。

2020/3/2
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