局地的マッピング

局地的地図の膨大な集積が「世界全体の把握」に結びつくことはない。

私たちは、局地に生きている。私たちは局地的に偏在している、といってもよいだろう。そして、「局地に生きている」という事実から生まれる「全体への渇望」は、決して満たされることがない。

マッピングとは「地図を作る」行為、すなわち「世界を理解する」行為である。その方法は「思考」である。マッピングによって作られるのは「局地的」な地図であり、これら地図の切片は、「私」の中で「全体の地図」として統合される。しかし、この統合は常に不完全なものだ。「地図の全体性」は想像上の全体でしかなく、「私」は接点の見いだせない地図の断片を拾い集め、「1つの世界」を夢見ているに過ぎない。

マッピングの成果は、アウトプットによって共有される。Aという人物がアウトプットした地図は、Bという人物にとって「Bの地図」を構築するための部材となる。マッピングによって様々なアウトプット、例えば情報、サービス、食料、芸術、建築等々が生産される。マッピングによるアウトプットは世界を構成する一部となり、次なるマッピングの対象となっていく。世界は、マッピングを軸とするアウトプットとインプットの循環によって成り立っている。

局地的マッピングの成果は、そのすべてが採用されるわけではない。マッピングの段階で行われる選択とは別に、マッピング後の選択が行われ、そこで多くの地図が捨象される。絶え間ない取捨選択により、その人の持ちうるサイズの地図が形成され、更新されていく。マッピングの主体が持つ経験や能力、嗜好等によって、それぞれが形成する「私の地図」には、大きなちがいが生まれることになる。

局地的地図の膨大な集積が「世界全体の把握」に結びつくことはない。断片的世界観の集積が、あたかも「全体」であるかのように錯視されているにすぎないからだ。部分の集積は全体にはならず、部分+部分+部分+部分+部分…の集合体でしかない。こうした集合体の中に「部分的な全体」を区画することは可能だが、健全なマッピングの成果は、その「画定された全体」を超え出ていくか、破壊していく。

局地的地図の集積は、全体を隈なく構成するパズルのピースではなく、偏在する断片のちぐはぐな組み合わせにすぎない。断片は、「認識」によってかろうじて結び付けられている。正常とされる認識が得られなければ、世界は総体として把握されず、無数の断片として飛び散ってしまう。全体観を認識できなければ、人は相互に遮断された断片の渦中で、自らも分裂した状態で彷徨い続けなければならなくなる。

局地的マッピングの特徴は、それが継起する思考の集積であり、かつ断片であるということ。そして、その集積/断片が常に変動の中にあるということだ。マッピングによって得られる地図は、常に更新(追加と破棄)を迫られている。安定した状態が維持されることはなく、ダイナミックに変化し続けている。人は変動する地図のただなかにいながら、断片を紡ぎ、物語を織ることで、「私」や「世界」といった総体を認識している。

私はだから、局地に生きている。私は、局地的に偏在する私の集合体としての「私」である。それぞれの私は、「私」による「私」のための、偽の結合作用によって「纏まって見えている」。私は局地に生きているし、局地に生きることしかできない。局地は偏在し、私はその偏在する局地に分断されてある。局地的マッピングはそれらの局地を地図としてアウトプットし、「1人の私」を生成させる、生の営みである。

2020/3/9
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