「移動」について

新幹線のシートに座って外を流れる景色を眺めていると、もしも新幹線が透明だったなら? と思うことがある。

僕たちはいつも、多かれ少なかれなんらかの移動をして日々を送っている。家と会社の往復、家と学校の往復、旅行で温泉に出かけたり、出張で海外へ行ったり、日曜日に買い物へ出かけたり。移動の方法も、徒歩で、自転車で、自動車で、列車で、飛行機でなど様々だ。人は様々な方法で、様々な場所への移動を行っている。それでは、これらの移動を行っているのは、いったい誰だろう? もちろんそれは「私自身」であるはずだ。けれど、果たして本当に「私」が「私」として移動していると言えるのだろうか?

例えば、私の「身体」はどうだろう。身体がその位置を変えるとき、それは確かに移動であるように見える。A地点からB地点へ、現実として、身体は移動を行っている。それは客観的な事実としての移動である。身体は物理的な存在として、移動を行っている。

例えば、私の「意識」はどうだろう。意識の中で、これから移動する場所について想像する。過去の幼少期の思い出を回想する。本を読み、そこで語られている世界の中へと入り込む。それらは、想像の中で思い描かれる、場所や時間の移動である。

それでは、私の「身体」と「意識」はどうだろうか。例えば家から会社に向かって移動する。その間、私は本を読んでいて、意識は16世紀のヴェネチアに飛んでいる。これは、会社への移動と言えるのだろうか? それとも16世紀ヴェネチアへの移動と言えるのだろうか? あるいはその両方なのだろうか? 意識と身体は紐づいているので、身体が移動すれば、それに伴って意識もまた同じ移動を行っている、と言えるのだろうか? 身体が会社に移動していた時、意識はヴェネチアに飛んでいた…などと言う時、それは身体と意識がともに「同じ移動」を行っていると言えるのだろうか?

僕は平日の週5日、家から会社、会社から家への往復を行っている。この移動の内容に変更はない。そのため、どの道を歩き、どの路線を乗り換えて、どの出口を出て、などと考えることなく、家と会社の往復運動を行うことができる。その時、僕は「自動人形」と化している。移動中、考え事をしていたり本を読んでいたり音楽を聞いたりしていると、いつのまにか乗り継ぎ駅に着いている、あるいは家の前まで来ている、などといったことは日常茶飯事だ。この時、僕は意識の上ではほとんど意識することなく、身体による移動を行っていることになる。

新幹線のシートに座って外を流れる景色を眺めていると、もしも新幹線が透明だったなら? と思うことがある。新幹線がすべて透明でできていたら、外から眺められた僕は、椅子に座った格好のまま、時速200kmという速度で、宙を滑空しているように見えるはずだ。いや、新幹線は透明でないためそのように見えていないだけで、実際のところ僕は、そのような形で「移動」をしているのだ。けれど新幹線に乗る僕は、こうした移動の「現実」を頭の中で想像することはできても、身体や意識によって直接に実感することはない。

人は、「意識」する/しないに関わらず、「身体」として移動することが可能である。つまり移動は、自分が「移動しているかどうか」という意識から切り離されたところで、事実として存在することができる。例えば会社と家の行き帰りというルーティーンによって。例えば座っているだけで身体を運んでくれる乗り物によって。身体は移動をしているのに、意識はまったく移動をしていないということが、ごく当たり前の日常としてあるということだ。

移動というのは、A地点からB地点へ一気にテレポーテーションすることではない。「移動」ということの中には、A地点からB地点までの運動と時間の推移、つまりプロセスが含まれている。確かに身体は、その間の「移動というプロセス」を具体的に生きている。しかし意識に関していえば、仮にA地点で眠りにつき、B地点で目を覚ましたとすれば、その間のプロセスは意識としては生きられていないことになる。意識されるのは、A地点とB地点の2つのポイントのみであり、AとBの間のプロセス≒移動は、意識の上では存在しないのと同じことなのだ。

身体と意識の分断は、今に始まったことではないだろう。人は身体を自分以外の何物かに委ねることによって、身体の移動を意識することなく、意識が他の作業に没頭できるような状況を作り上げてきた。列車や飛行機での移動中は、移動について意識することなく、仕事をしたり、本を読んだり、音楽を聴いたりすればよい。移動は、B地点への到着という「目的」を達成するための「方法」に過ぎない。重要なことは、B地点へ辿り着くという「結果」なのだから、そこに至るまでの「プロセス」は意識の外へ押し出してしまえばよい。それにより、移動の間、移動よりも有意義な時間を過ごすことができる。

人はこれまで、移動を意識しなくても容易に移動が可能となるような、快適なインフラを作り上げてきた。それは道だったり、レールだったり、その上を走る自動車だったり、鉄道だったりする。滑らかに整備された道路やレールの上で、僕たちは、崖や、穴や、天気や、危険な生き物たちといった障害に意識を向けることなく、安全に移動することのできる世界を生きている。事故の危険は常にあるものの、事故を防ぐための様々なルールが整備されている。ルールもまた、インフラの一部なのだ。

結果、意識と身体が密に交わらなければ乗り越えられないような障害に対する能力は、人から確実に失われていったように思う。山の奥深く入り込み、地図もなしに、迷うことなく頂上を目指したり、狩りをしたり、木々を切ったり、キノコを探して歩いたりする能力。こうした能力を持っていたのは、自然と対峙し、自然と一体となって生きるために、身体と意識の密な関わりが必須であった時代である。対して現在では、意識は意識として肥大化する一方、身体は忘れ去られていく。身体は、自らを安心して委ねることのできるインフラに依存し、インフラなしでは自身を支えることすらできなくなっている。

僕たちは「身体」を、 身体による「移動」を、 意識のもとへ取り戻すことができるのだろうか? 「今ここ」へと意識を返し、「身体の移動」に「意識」を同伴させること。身体と意識がともに溶け合い、どちらがどちらともいえないような様態で生きるということ。今となっては、それがどのような感覚なのかも、定かではなくなりつつある。靴を履いて、アスファルトで覆われた道を歩く現代人にとって、道なき道を自らの意識と身体によって歩いて行くことは、もはや不可能なのかもしれない。死の恐怖に怯えながら、生への執着に駆られて生きていたかつての生活。それらはすでに、想像することさえもかなわない、非現実的な夢へと変貌してしまったのだろうか。

2020/2/13
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