局地的地図の膨大な集積が「世界全体の把握」に結びつくことはない。
私たちは、局地に生きている。私たちは局地的に偏在している、といってもよいだろう。そして、「局地に生きている」という事実から生まれる「全体への渇望」は、決して満たされることがない。
マッピングとは「地図を作る」行為、すなわち「世界を理解する」行為である。その方法は「思考」である。マッピングによって作られるのは「局地的」な地図であり、これら地図の切片は、「私」の中で「全体の地図」として統合される。しかし、この統合は常に不完全なものだ。「地図の全体性」は想像上の全体でしかなく、「私」は接点の見いだせない地図の断片を拾い集め、「1つの世界」を夢見ているに過ぎない。
マッピングの成果は、アウトプットによって共有される。Aという人物がアウトプットした地図は、Bという人物にとって「Bの地図」を構築するための部材となる。マッピングによって様々なアウトプット、例えば情報、サービス、食料、芸術、建築等々が生産される。マッピングによるアウトプットは世界を構成する一部となり、次なるマッピングの対象となっていく。世界は、マッピングを軸とするアウトプットとインプットの循環によって成り立っている。
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