言葉の「力能」

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

ネットの記事で、「幸福」についての議論を見かけました。しかしその議論は、そもそも「幸福」とは何か? を定義しないところ行われていました。そして、言葉によって「幸福」を定義することは、非常に困難なことだと思います。幸福は、「幸福」という言葉の示す範囲をはるかに超えて、その定義を曖昧なものにしていくからです。

言葉は「理解する」ための道具です。言葉がなければ、人は対象を理解することができません。言葉によって人は「残す」ことができ、残すことによって「理解」し、理解することによって「終わらせ」、「始める」ことができます。言葉を読み聞くことによって、人はその言葉の持ち主の「考え」を理解し、その向こう側にある「その人自身」を知ることができます。

しかし、言葉の持つこうした力能には限界があります。言葉の手には余る領域というものがあり、かろうじてその領域を指す言葉が存在してはいるものの、実際に言葉がそれを理解するための役割を十分に果たしているかというと、どうもそうとは言い切れないことが多いというのが現実です。それは例えば「幸福」「自由」「愛」「死」「正義」といった言葉と、それが指し示しているはずの「なんだかよくわからないもの」です。

つまり、これらの領域はいくら言葉を尽くして「表現」したとしても理解するには不足のある「何か」であり、言葉による「理解」を超えたところにあるものだと思います。しかし、それでは「幸福」「自由」「愛」「死」「正義」といった言葉によって示される領域が手の届かない事柄なのかといえば、そうではありません。これらは、いずれも確かにあるということがわかり、「感じる」ことのできるものなのです。

こうした現実に直面するとき、言葉とはあくまでも「理解」のための道具にしか過ぎないものである、ということを実感させられます。つまり「理解」とは所詮、言葉の次元で行われる組み合わせのパターンにすぎないのであって、それ以上でも、それ以下でもないのだということです。言葉が傲慢になる時、言葉からこぼれ落ちるもの、言葉の手に負えないものは、価値のないものとして積極的に破棄されます。

言葉の手からこぼれ落ちるものとは、いわば「理解できないもの」です。それはあくまでも「言葉によっては」という留保つきの「理解できない」なのですが、言葉を「対象を正確に指し示すことのできる記号」として考える言葉至上主義に陥っていると、言葉にできないものとは理解できないものであり、理解できないものとは価値のないものである、という短絡へと陥っていきます。

こうした限界に自覚的な言葉は、自身の力能の範囲を超える領域に対する謙虚さを持っています。そして、言葉が指し示すことのできない領域があるということを自らの中に織り込んでいます。それは、言葉に依存しながら、その無力さをも自覚するという、一種のジレンマを抱えた状態です。そのジレンマに対する苦しみや足掻き、諦念、希望といった様々な感情が、こうした「無力な」言葉のうちには含まれています。

言葉の限界から目を背ける限り、「言葉にできない何か」に目を向けることはできません。それに対して、「言葉にできない」ことをあえて言葉にしてみるとき、そこには言葉では言い表すことのできない、けれども確信を持って感じることのできている幾多の「何か」が含まれています。そしてそのような言葉こそが、人を動かす力を持っているのだと思います。