「親密」な写真

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

親密さということに関連して、「親密な写真」ということについて考えています。「親密な写真」といった時に私が真っ先に思い浮かぶのは、ロラン・バルトの「明るい部屋」です。写真論の名著として知られるこの本ですが、何度読み返しても、私にはその主張するところがよくわかりません。辻褄が合っているような、合っていないような、合わせるつもりがないような。それはバルトによる独り言であり、しかしその独り言の吐露がなぜか人の心を打つ、そのような文章なのだと思います。

バルトの「明るい部屋」は、その主張の不明瞭さと引き換えに親密さを獲得しています。そしてその主張するところもまた、親密さに依るもののように思います。その親密の故にこそ、「明るい部屋」は明晰なものではなく、曖昧、感情、記憶、揺らぎ、そして不明瞭なムードを醸し出しているのではないでしょうか。ここでは、バルトの文章は理解するものではなく感じるものであり、その揺らぎに付き合うもののように思われます。

親密さと理解は、相反するものだと思います。親密さのあるところに理解はなく、理解のあるところに親密さはありません。親密さは、十全な理解によっては得られません。むしろ、理解の不備、不全によってこそ、親密さは生まれるように思います。写真が理解されようとする時、また写真が理解されるものであるとき、そこに「親密な写真」は立ち現れないでしょう。なぜなら、親密さとは寄り添うことによってしか得られないものであり、寄り添うことは、理解することの不可能性を意識するところに生まれる態度だからです。

写真は現在、膨大な量の情報を保管し、伝達するインフラストラクチャーの実現によって、写真が本来持っている「記録」と「記憶」という2つの機能を最大限に活用する術を得ています。記録によって客観性を、記憶によって主観性を実現する写真は、この2つの機能を、インターネットというメディアの上で同時に実現するという幸運を得ているのです。しかし、その結果、写真は記録による「共有」と、記憶による「共感」の価値に包み込まれ、理解されようとするもの/理解されるものとして消費の対象となっています。

消費の対象としての写真は、そこではすでに「情報」へと還元されています。情報へと還元された写真は、フラットなインフラの上で誰にも手に入るものとなるとともに、誰の手にも入らないものとなります。それは、近くて遠い/遠くて近いのではなく、ただただ遠いだけの存在なのです。この離反、喪失は写真に限らず、情報へと還元されるすべての表現に当てはまるものです。そしてそこでは、「親密さ」が失われているのです。

親密さとは、個人的なものです。そして容易には共感することのできない、微細で複雑な感情です。再現性はなく、常に個別的なものであり、一期一会であり、二度繰り返されることはありません。同じ写真を見ても、毎回異なる感情が生まれ、異なる体験があり、目の前には常に新しい写真があります。それは感情のやりとりであり、駆け引きです。完全には交わらない感情、共感することのない感情が、ある一定の距離のもと出会い、触れ合い、擦れ合い、また離れていく。そのような体験が「親密さ」であると思います。

写真が記録と記憶の機能を背負っていることに代わりはありません。しかし「親密さ」のもとで、記録と記憶はその質を変化させるように思えてなりません。その質とは、機能的ではなく体験的であり、合理ではなく不合理に基づいています。せっかくの出会いにも関わらず、理解できず、また理解されないまま離れていかざるを得ない、そのような「無為」の行為こそ、写真に求められる「親密さ」という名の経験なのではないかと思っています。