「記録」と「記憶」

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

前回話に出た、写真の「記録」と「記憶」について考えています。写真には「記録」と「記憶」という2つの側面があり、どちらも残す/残ることに関わるものです。記録は客観的なもの、記憶は主観的なものであり、前者は人が存在せず写真のみでも成立しますが、後者は人が存在しなければ、つまり人と写真との「関係」がなければ成立しません。

写真というのはそもそも技術的なものであり、技術とはそれ自体で自立して存在しうるものですから、写真は本来、客観的な性質を備えています。記憶という主観的、関係性的な側面も、この「記録のための技術」という客観的な土台なしには成立しないのです。人は写真に触れる時、出会う時、この「記録」を前提として、その上で様々な記憶的作業を試みます。その記憶的作業の中に、様々な感情の揺らぎ、すなわち親密さ、情動も含まれるのです。

写真は、そのはじまりにおいて一部の専門家のみが扱うことのできる技術でした。つまり、「記録」を取り扱うところから始まったと言えます。それが、誰もが扱うことのできる技術として普及するに従い、写真はより個人的なものへと姿を変え、「記憶」を取り扱うものへと変化します。さらに写真を広げるためのインフラが整備されるに従い、写真は個人的な「記憶」でありながら、かつ広く社会的に共有される「記録」でもあるもの(ソーシャルメディア)へと変化します。

写真は現在、個人的な「記憶」を扱うメディアであると同時に、それぞれの写真が持っている個人との関係性から切り離されたところで流通し、共有されうる「記録」的なメディアとしても機能しています。これは、「記憶」以前の素朴で原初的な状態としての「記録」に対し、「記憶」を通過したところに立ち現れる「記録ver.2」であると言えるのかもしれません。

「記録ver.2」は、記憶の土台としての「記録ver.1」に比べより広範囲に流布し、量は膨大であり、非常な速度で拡散、共有されていくものです。そしてその「記録ver.2」の上で行われる種々の「記憶」、つまり「記憶ver.2」こそが、現在の写真を取り巻く状況であるということができます。「記録」と「記憶」それぞれのver.1から2への移行により、状況は複雑になっています。そして、その価値は著しく低いものとなっています。

それぞれのver.2において写真がその価値を落とした理由には、様々な要因が考えられると思います。例えば、いつでもどこでも手に入ること、量があまりにも膨大であること、誰もが公開することができ、違いが少なく、どれも同じように見えること、などです。メディアとしての軽さ、扱いの容易さは、その数を増やすことに寄与し、数の増大は質の均質化を招きます。そして質の均質化は、媒体を価値の下落へと導いていきます。

そしてなにより、写真がその価値を落とした背景には、「記録」本来の役割としての「関係性」が希薄となり、曖昧なものとなっていったことがあるように思います。「私」にとっての「記憶」ではなく、「みんな」にとっての「記憶」へと落ち込む時、その価値はよりリーズナブルで、誰にとっても等価値なものとなります。個の質ではなく集合としての量が求められ、個の記憶ではなく集合としての記憶が優先されるのです。