写真集「HOME」のこと③

中村さんの目が何を湛えているのか、僕にとって、それは1つの不思議だった。

写真家の中村治さんにはじめて会ったとき、なにより印象に残ったのは、中村さんの「目」だった。中村さんがどのような表情で僕を迎えてくれたのか、今となっては定かでない。中村さんのことだから、少しはにかみながら、邪気のない笑顔で僕を迎えてくれたのだろう。けれど、中村さんの目が印象的だったことは、今でもよく覚えている。中村さんの目は、表面に現れ出た笑顔とは異なる不思議な何かを、その奥に湛えていたように思うのだ。

不思議というのは、思議ができない、すなわち「わからない」ことを意味している。はじめの頃、僕は中村さんの目に何を読み取ってよいのかわからず、ちょっとした怖さを感じた。中村さんの目が何を湛えているのか、僕にとって、それは1つの不思議だった。「わからない」ことは、信仰の対象になりうる。「わからない」ことは、それ自体が価値なのだ。

写真家は「見る」ことを生業とする職業だ。写真家は、カメラのレンズを通して世界を、人を見る。「見る」という行為の背景には、写真家の「意識」がある。シャッターが押されるとき、そこでは写真家の「見る」と「意識」、2つの運動が重なり合っている。写真家は「意識」することによって「見る」。そして「見る」ことによって「意識」する。写真家にとっての「現実」は、写真家の「意識」と「見る」相互のフィードバックが作り出した「現実」である。そして「見る」と「意識」、「現実」が互いに共鳴し合う中、残響のようにして生み落とされるのが写真なのだ。

写真家の「見る」は、写真家の「意識」と重なり合いながら、写真としてアウトプットされる。だから、僕たちは写真を見ることによって、その写真を撮影した写真家の「目と意識」の流れる様を見ることになる。その写真家は、その時、その場所で、どのような目で、意識で被写体を見ていたのか? それは、写真の中に見て取ることができる現実である。写真を介して、僕たちは写真家の見るという行為と、自分の見るという行為を重ね合わせることができる。視点の一致。そして、その奥にある意識の一致の試みが、写真を見るということの1つの喜びである。

中村さんの「目」の不思議は、だから、中村さんの撮影した写真を見るという体験の内に感じることができる。中村さんが写真を撮った、その時の目を、写真を見る僕たちは追体験する。中村さんの「HOME」で、カメラのレンズは客家の人々にまっすぐに向けられている。客家の人々の視線もまた、カメラのレンズに、まっすぐに向けられている。その目は澄んでいて、少し潤いを帯びている。そこには悪意はなく、かといって好意もない。ただ、含みのない、嘘のないまなざしが、こちらに向けられているように感じられる。そしてその時、中村さんの目はカメラのレンズを通して、確かにその目を見ていたのだ。

僕は、客家の人々を撮影しているときの中村さんと、中村さんに撮影されているときの客家の人々は、同じ目をしていたのではないかと想像する。中村さんがレンズを通して客家の人々に向けたまなざしと、客家の人々が中村さんのカメラを見つめるまなざしが、その質を同じにする瞬間があったのではないか。それは見ることの一致であり、意識の一致でもある。そのような、自と他が一瞬だけ溶け合い、同じ意識を共有する瞬間が、中村さんが写した写真には見て取れるように思われるのだ。

中村さんの目を理解することは、中村さんの写真を理解することに一致する。そして「HOME」においてそれは、写真に写し出された客家の人々を理解することに一致する。「HOME」の中で自と他は、シャッターが切られるその瞬間だけ溶け合い、また離れていく。写真を見る人は、その一瞬の邂逅に、写真を見る間だけ参加することができる。写真という媒体は面白い。そして不思議である。その不思議は、今日もまた、中村さんの目と写真の中に見ることができる。

2019/12/13
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