客家という言葉の中では、本来は相容れないはずの隣人が同居し、互いに軋みをあげているのだ。
「HOME」という写真集は、「客家」と呼ばれる人々のポートレイトと、その住居である「客家土楼」の写真から構成されている。中村治さんの話を聞くまで、僕は客家という人々の存在も、客家土楼という建物があることも知らなかった。そして中村さんに「客の家」と書いて「はっか」と読むのだと教えられたとき、 僕の中で「客家」という言葉が俄かに騒めいた。
家には主人がいる。つまり主の家である。それが当たり前であるはずなのに、客の家というのはどういうことなのだろう? 家がある。その家には主人はおらず、客しかいない。客しかいない家? 客家という言葉は、「客」と「家」という2つの交わらない文字を、1つの言葉のうちに孕んでいる。客家という言葉の中では、本来は相容れないはずの隣人が同居し、互いに軋みをあげているのだ。
客家には、「客家土楼」という特異な家がある。はじめて客家土楼を見た時の印象を、中村さんは「空間にいきなりコップがゴンって置かれているような」と称した。それは土楼という存在の、周囲から自らを疎外する違和の感触を言い表している。その土地の土地性から外れた異様な存在。いきなり現れた異質な建造物。それが客家土楼であり、そこに住む客家と呼ばれる人々の存在なのだ。
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