表現と搾取①

表現者は、収奪者であることから逃れることができない。とはいえ、表現者にできることが何もないわけではない。

表現とは搾取を伴うものだ。写真、絵画、映画、演劇、音楽、文学、評論…。搾取を伴わない表現というものは、いったいありうるのだろうか? 搾取、収奪、奪うこと。写真は、被写体となった人物やモノ、出来事から視覚的/記憶的な搾取を行うことによって生まれる表現である。写真に撮られた被写体は、撮影者によって自身の何がしかを奪われてある。表現とはアウトプットであり、アウトプットの前にはインプットがある。そしてインプットからアウトプットへの過程では、何らかの収奪が行われる。

表現による搾取は、表現者自身がその対象となることもあれば、表現者以外の他者がその対象になることもある。表現者自身が対象になる場合、「私は奪われている」ということが、表現としての価値(すべてではないにしても)を担う。他者が対象になる場合、「その人は奪われている」ということが、表現としての価値(すべてではないにしても)を担う。そして、表現者はこの「表現の価値が搾取に負っているという事実」に自覚的でなければならない。

搾取を行った表現が、搾取の対価を「補償」することは期待できない。対象Aから奪うことによって成立した表現は、別の対象Bに何かを与えることはあっても、対象Aに代償を払うことはない。対象A→表現→対象Bという流れはあっても、対象A→表現→対象Aという流れは生まれえないのだ。搾取の主体と搾取の対象は、奪い/奪われる関係しか作りえない。それは、搾取の対象が表現者自身である場合も、表現者以外の他者である場合も同じである。

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動機マイニング

結局のところ「本を作る」ということは、その著者がこれまでに経験してきたプロセスを、それを経験したことのない人に向けて、「本」という形で伝える作業にほかならない。

この人は、これまでどんな人生を経てきたのだろう。どんな仕事をして、どんな知識や経験を得て、どんな価値観を養ってきたのだろう。また、この人は朝何時に起きて、いつ、どこで仕事を始め、いつ仕事を終えて、いつ眠るのだろう。そして、この人はどんな家族がいて、交友関係があり、どんな人と仕事をして、どんな人に、何を伝えたいと思っているのだろう。

本の著者との打ち合わせで、このようなことを考え、そしてこれらの疑問を投げかけてみる。すると、この人がどんな本を作りたいと思っていて、どんな本を作ることができて、その本はどんな人に届けるとよいのかがわかってくる。本は、それを書く人の内側にないものを反映することはできないし、内側にあるすべてを反映することもできない。そして、本はその人のある特定の一部を、ある角度からしか切り取ることができない。

この「特定の一部」とは本の内容であり、「ある角度から」というのは形式である。形式は、演出や仕組みと言い換えることもできる。同じ内容を扱っても、切り取る角度が変われば、それは異なる本になる。内容や形式の大半は、「その人」が持っている「その人性」によって決定づけられる。本に落とし込むことができるのは、その人の総体であり、その人の持っている思想、性格、価値観である。要は、「無理は効かない」ということだ。

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マイナーであること

そしてここに、「個としてのマイナー」が現れる。 それは、マイノリティであることを拒否する「マイナー+個X」である。

写真家石黒健治は、「私はマイナーである」と自己規定する。そこに、自身を揶揄する響きはあるだろうか? その答えの如何に関わらず、私は石黒健治がマイナーな写真家であるということに賛同する。もちろん、肯定的に賛同するのだ。

それにしても、「マイナー」とはいったい何だろう? 辞書で「マイナー」を調べると、「より小さい」「より少ない」「より劣る」という意味の形容詞であることがわかる。また、「知名度が低い」という意味もある。マイナーの対義語は「メジャー」である。マイナーは、メジャーに比べて「小さい」「少ない」「劣っている」「知られていない」存在であるということだ。

また、「マイノリティ」「マジョリティ」という言葉がある。これは形容詞である「マイナー」「メジャー」を名詞化した言葉で、それぞれ「少数派」「多数派」という意味がある。マイノリティ、マジョリティは、ある共通の性質をもった人や物の集まりを意味する集合名詞である。マイノリティ、マジョリティは、「誰か1人」を指す言葉ではない。マイナーな人の、メジャーな人の集まり、集団を意味している。

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局地的マッピング

局地的地図の膨大な集積が「世界全体の把握」に結びつくことはない。

私たちは、局地に生きている。私たちは局地的に偏在している、といってもよいだろう。そして、「局地に生きている」という事実から生まれる「全体への渇望」は、決して満たされることがない。

マッピングとは「地図を作る」行為、すなわち「世界を理解する」行為である。その方法は「思考」である。マッピングによって作られるのは「局地的」な地図であり、これら地図の切片は、「私」の中で「全体の地図」として統合される。しかし、この統合は常に不完全なものだ。「地図の全体性」は想像上の全体でしかなく、「私」は接点の見いだせない地図の断片を拾い集め、「1つの世界」を夢見ているに過ぎない。

マッピングの成果は、アウトプットによって共有される。Aという人物がアウトプットした地図は、Bという人物にとって「Bの地図」を構築するための部材となる。マッピングによって様々なアウトプット、例えば情報、サービス、食料、芸術、建築等々が生産される。マッピングによるアウトプットは世界を構成する一部となり、次なるマッピングの対象となっていく。世界は、マッピングを軸とするアウトプットとインプットの循環によって成り立っている。

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概念ドリブン

世界は、概念ドリブンとして生成される。概念は世界の反映ではなく、世界そのものである。

人は何かを考える時、契機となる何かを必要とする。思考を開始し、展開させる、そのためのトリガーとなるもの。思考を発動させるための機械、推進力を維持するためのモーター。思考が開始されるための端緒となり、そして継続的に展開し続けるための燃料の投入。その契機、回転し加速するエンジンとしての「概念」。契機としての「概念」によって、「駆動=ドライブ」すること。

プログラミングの考え方に、「イベントドリブン」というものがある。

「イベント駆動型プログラミング(イベントくどうがたプログラミング、英: event-driven programming)は、コンピュータプログラムが起動すると共にイベントを待機し、発生したイベントに従って受動的に処理を行うプログラミングパラダイムのこと。」(Wikipedia)

プログラムの処理が発生する、トリガーとしてのイベント。ボタンのクリックやタップといったイベントの発生を受けて、あらかじめ準備されたプログラムが走り始めること。このときプログラムは、イベントに対して受動的なポジションにある。同ページの定義には、

「起動後に指定のタスクのみを実行して即座に終了するような、直線的な制御フローを基本とするプログラミングパラダイムに対する概念。」(Wikipedia)

ともある。あらかじめ決められた始まりと終わりのある直線的なプログラムではなく、任意に発生するイベントに応じて展開されるプログラム。イベントドリブンにおいて、進行の道行きはダイナミックに変動し、展開はバリエーションを伴うことになる。そしてこの一文でもう1つ重要なことは、イベントドリブンが、プログラミングに関わる1つの「パラダイム」、すなわち世界に対するものの見方、考え方であるということだ。

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