動機マイニング

結局のところ「本を作る」ということは、その著者がこれまでに経験してきたプロセスを、それを経験したことのない人に向けて、「本」という形で伝える作業にほかならない。

この人は、これまでどんな人生を経てきたのだろう。どんな仕事をして、どんな知識や経験を得て、どんな価値観を養ってきたのだろう。また、この人は朝何時に起きて、いつ、どこで仕事を始め、いつ仕事を終えて、いつ眠るのだろう。そして、この人はどんな家族がいて、交友関係があり、どんな人と仕事をして、どんな人に、何を伝えたいと思っているのだろう。

本の著者との打ち合わせで、このようなことを考え、そしてこれらの疑問を投げかけてみる。すると、この人がどんな本を作りたいと思っていて、どんな本を作ることができて、その本はどんな人に届けるとよいのかがわかってくる。本は、それを書く人の内側にないものを反映することはできないし、内側にあるすべてを反映することもできない。そして、本はその人のある特定の一部を、ある角度からしか切り取ることができない。

この「特定の一部」とは本の内容であり、「ある角度から」というのは形式である。形式は、演出や仕組みと言い換えることもできる。同じ内容を扱っても、切り取る角度が変われば、それは異なる本になる。内容や形式の大半は、「その人」が持っている「その人性」によって決定づけられる。本に落とし込むことができるのは、その人の総体であり、その人の持っている思想、性格、価値観である。要は、「無理は効かない」ということだ。

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マイナーであること

そしてここに、「個としてのマイナー」が現れる。 それは、マイノリティであることを拒否する「マイナー+個X」である。

写真家石黒健治は、「私はマイナーである」と自己規定する。そこに、自身を揶揄する響きはあるだろうか? その答えの如何に関わらず、私は石黒健治がマイナーな写真家であるということに賛同する。もちろん、肯定的に賛同するのだ。

それにしても、「マイナー」とはいったい何だろう? 辞書で「マイナー」を調べると、「より小さい」「より少ない」「より劣る」という意味の形容詞であることがわかる。また、「知名度が低い」という意味もある。マイナーの対義語は「メジャー」である。マイナーは、メジャーに比べて「小さい」「少ない」「劣っている」「知られていない」存在であるということだ。

また、「マイノリティ」「マジョリティ」という言葉がある。これは形容詞である「マイナー」「メジャー」を名詞化した言葉で、それぞれ「少数派」「多数派」という意味がある。マイノリティ、マジョリティは、ある共通の性質をもった人や物の集まりを意味する集合名詞である。マイノリティ、マジョリティは、「誰か1人」を指す言葉ではない。マイナーな人の、メジャーな人の集まり、集団を意味している。

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局地的マッピング

局地的地図の膨大な集積が「世界全体の把握」に結びつくことはない。

私たちは、局地に生きている。私たちは局地的に偏在している、といってもよいだろう。そして、「局地に生きている」という事実から生まれる「全体への渇望」は、決して満たされることがない。

マッピングとは「地図を作る」行為、すなわち「世界を理解する」行為である。その方法は「思考」である。マッピングによって作られるのは「局地的」な地図であり、これら地図の切片は、「私」の中で「全体の地図」として統合される。しかし、この統合は常に不完全なものだ。「地図の全体性」は想像上の全体でしかなく、「私」は接点の見いだせない地図の断片を拾い集め、「1つの世界」を夢見ているに過ぎない。

マッピングの成果は、アウトプットによって共有される。Aという人物がアウトプットした地図は、Bという人物にとって「Bの地図」を構築するための部材となる。マッピングによって様々なアウトプット、例えば情報、サービス、食料、芸術、建築等々が生産される。マッピングによるアウトプットは世界を構成する一部となり、次なるマッピングの対象となっていく。世界は、マッピングを軸とするアウトプットとインプットの循環によって成り立っている。

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概念ドリブン

世界は、概念ドリブンとして生成される。概念は世界の反映ではなく、世界そのものである。

人は何かを考える時、契機となる何かを必要とする。思考を開始し、展開させる、そのためのトリガーとなるもの。思考を発動させるための機械、推進力を維持するためのモーター。思考が開始されるための端緒となり、そして継続的に展開し続けるための燃料の投入。その契機、回転し加速するエンジンとしての「概念」。契機としての「概念」によって、「駆動=ドライブ」すること。

プログラミングの考え方に、「イベントドリブン」というものがある。

「イベント駆動型プログラミング(イベントくどうがたプログラミング、英: event-driven programming)は、コンピュータプログラムが起動すると共にイベントを待機し、発生したイベントに従って受動的に処理を行うプログラミングパラダイムのこと。」(Wikipedia)

プログラムの処理が発生する、トリガーとしてのイベント。ボタンのクリックやタップといったイベントの発生を受けて、あらかじめ準備されたプログラムが走り始めること。このときプログラムは、イベントに対して受動的なポジションにある。同ページの定義には、

「起動後に指定のタスクのみを実行して即座に終了するような、直線的な制御フローを基本とするプログラミングパラダイムに対する概念。」(Wikipedia)

ともある。あらかじめ決められた始まりと終わりのある直線的なプログラムではなく、任意に発生するイベントに応じて展開されるプログラム。イベントドリブンにおいて、進行の道行きはダイナミックに変動し、展開はバリエーションを伴うことになる。そしてこの一文でもう1つ重要なことは、イベントドリブンが、プログラミングに関わる1つの「パラダイム」、すなわち世界に対するものの見方、考え方であるということだ。

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名古屋→品川

本から顔を上げると、列車は栄に着いていた。お土産の入った紙袋に本を入れ、しばらく何も考えないでいる。

実家に2泊して帰る日の朝、僕は南側の窓辺に立って、子供の時分にいつも見ていた大通りを見下ろしていた。通りの交通量は多く、しかも多少の勾配があるため、一晩中自動車の走る音が響く。いつもこの通りに面した部屋で寝ていたため、今ではこの音にすっかり慣れてしまい、気にすることなく眠れるようになっていた。音は聞こえるものの、窓から通りの様子を見ることはできない。向こう側の歩道を歩く人や、自転車が見えるばかりである。

駅前の神戸屋で、遅めの朝食を食べる。父は不器用な手つきで、スクランブルエッグをゆっくりとちぎりながら口に運んでいる。店内は満席で、僕と父以外はすべて女性客だった。グループの客が席が空くのを待っていたが、待ちくたびれたのか、しばらくするといなくなっていた。母はこのあとダンスのレッスンということで、それまで僕が土産を買うのに付き合うと話した。父は食事を終えると、そのまま家に帰るそうだ。

デパートから地下鉄へと向かう出入り口で母と別れ、改札を入り、来た時と同じホームに戻ってくる。平日の昼、ホームはどこかひそやかな雰囲気で満ちている。しばらく待つと地下鉄が滑らかに入ってくる。空いたシートを見つけて座り、トートバッグから本を取り出し読み始める。ヴェネツィアの出版人は不本意な結婚をし、安定した生活を送りながらも、人生の何ものも実現できていないと感じ、ただ憔悴しているようだった。

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