商品/金銭/疎外

疎外は商品が商品として存在するための、必須の条件といえるのだろうか?

本は商品である。商品とは売り買いの対象であり、その売り買いは、金銭と商品との交換によって行われる。商品には売り手によって価格がつけられ、買い手がその金額を妥当と考えれば、取引は成立する。売り手のもとには金銭が残り、買い手のもとには商品が残る。取引において本と金銭は、売り手と買い手の双方にとって等価でなければならない。

そしてその本もまた、様々な商品と金銭との交換を経て、商品としての完成へと至っている。紙、印刷、製本、デザイン、執筆などなど。出版社は、紙と金銭の交換を、印刷と金銭の交換を、製本と金銭の交換を、デザインと金銭の交換を、執筆された著作物と金銭の交換を行い、最終的に、その手には「本」という商品が残されることになる。

それでは、その手に残された本という商品は、もはや紙や印刷、製本、デザイン、執筆を担った企業ないしは個人と、もはや無関係なのだろうか? 金銭と商品を交換した以上、金銭を手にした者は、もはや金銭以外の何物も持ってはいないのだろうか? 実体としての商品や、数字としての金銭、法律としての権利のことだけを考えれば、おそらくそうであろう。商品は、疎外されることによってはじめて商品足りえるのだ。

著者に関していえば、著作権という権利は、金銭の授受に関わらず(譲渡しない限り)著作権者が有している。しかし商品としての本は、出版社が出版権という形で権利を有している。あまり知られていないことかもしれないが、著者は、出版社から自分の本を買わなければならない。つまり、著者が自身の本との関係性を得るためには、金銭を使った交換が必要になるのだ。

こうして本は、商品としての自立性を確保すると同時に、また金銭との交換可能性を得ると同時に、それまでの関係性を失い、疎外された存在となる。しかし、疎外は商品が商品として存在するための、必須の条件といえるのだろうか? 金銭との交換によって旧来の関係性から切り離されない限り、商品は商品足りえないのだろうか?

骨董の世界では、その商品がこれまでにどのような人の手を渡ってきたかの履歴が残されているものがあるという。その履歴は、その商品の価値を高める場合もあれば、その逆の場合もあるかもしれない。骨董の世界では、商品が手放されたあとにも、誰がそれを所有していたかの関係性が記録として保存され続ける。そしてその関係性の履歴こそが、骨董という商品の価値を担保しているのかもしれない。

商品が売られたタイミングで、その商品がこれまでに経てきた関係性をすべて失うというのは、「交換」という発想で考えれば筋の通った話である。商品は金銭によってリレーのバトンのように受け渡されていき、今バトンを持っているのはただ1人だけであるからだ。しかしその結果、商品は商品として疎外され、抽象的で中立な存在、交換可能な存在として宙に浮くことになる。

こんな話を聞いた。「お金には、よいお金も悪いお金もない。ただの数字としてのお金があるだけだ」と話す人に対して、とある神父はこう答えたという。「しかし通帳には履歴が残る」と。その履歴には、金銭を振り込んだ、あるいは引き落とした相手の名前が記され、その名前は商品との切り離せない関係性として残ることになる。その関係性がよい関係であるのか、悪い関係であるのか。それは、よいお金と悪いお金、よい商品と悪い商品という、数字には還元のできない価値として、いつまでもつきまとうことになる。

商品を商品として疎外しないために、商品が生まれてくるまでの関係性、そして売られていく先の関係性をあらためて考えてみること。商品は、過去と未来の関係性の網の目の中にある。その本は、どのようにして作られ、どのようにして売られたのだろう? その中に、悪しき関係性はなかっただろうか? その商品の価値を貶める悪しき関係性は?

2019/12/18
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