こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。
この半年ほど、アーサー・ラッセルとブライアン・ウィルソンの音楽ばかり聞いています。というよりも、それ以外の音楽をほとんど聞いていないのです。そして彼らの音楽を聞くたび、「天才」という言葉が私の頭をかすめます。
「天才」という言葉は、使いづらい言葉として知られているように思います。「誰それは天才だ」といった発言をすると、必ずといってよいほど「それは彼の努力を軽視している発言だ」といった批判が起こります。こうした批判の裏には、「努力する必要のないほどの才能を天才と呼ぶ」という考えがあるのではないでしょうか。
私もまた、安易に「天才」という言葉を使いたくはないと思っています。誰かを「天才」と決めつけることは一種の暴力にもなりうるし、そもそも「天才」という言葉の意味があまりにも曖昧で、聞く人によって異なる解釈を生むものだと思うからです。
ですが、それでもやはりアーサー・ラッセルやブライアン・ウィルソンの音楽を聞いていると、どうしてもこの言葉を使いたくなってしまいます。彼らはやはり「天才」であり、それ以外の何者でもないように感じられてしまうのです。そこで、ここで私なりに「天才」の定義を試してみたいと思います。
「天才」という言葉を分解して考えてみると、「天賦の才」「天から与えられた才能」という意味に取ることができるように思います。つまり天才の才は、自らの努力によって後天的に手に入れた才ではなく、あらかじめ「先天的」に与えられた才である、ということです。
これは、なんとなく実感できることかと思います。「天才」と呼ぶほどではなかったとしても、同じことを同じ時期に始めたときに、ある人がどんどん上達していくのに対し、ある人はいつまでもうまくならないというのはよくあることです。そして、その差が必ずしも努力の差ばかりではないのでは? と思うこともしばしばです。
こうした先天的な才能はしかし、必ずしも顕在化しているとは限りません。仮にある人がサッカーの天才であったとしても、サッカーという競技が存在しない場所に生まれれば、その才は永遠に顕在化しないでしょう。またサッカーという競技が存在する場所に生まれても、サッカーボールに触れる機会や意思がなければ、やはり顕在化することはないはずです。天才とはあくまで「潜在的」なものであり、それが顕在化するには一定の条件が必要なのです。
そして、潜在的な天才性が顕在化するためには、外的な条件だけではなく、やはり本人のいくらかの努力が必要であるように思います。努力なしに天才性がいきなり目覚めるということはなく、その才を掘り出す労苦が必要になるように思います。その意味では、「天才とは努力を必要としない才である」という定義は、間違っているように思います。
そしてもう1つ、天才の重要な特徴があるように思います。それは、「自分ではコントロールできないところ」にその才がある、ということです。自分でコントロールできることは、自分が得ることができるものです。しかし天才の才は自分では得ることのできない「先天的」なものですから、コントロールの外側にはみ出るものでなければなりません。
天才が生み出すのは、「理屈」で理解できるものではありません。そして、コントロール不能の「自分でもどうにもならない何か」を生み出してしまうものです。結果的として、どうしてもそうなってしまう。それ故にこそ、天才は不幸を生み出すことがあります。コントロールできない才能に、合理性はありません。天才とは、自分の才を自由に乗りこなすことのできない、不自由な存在なのです。