表現者は、収奪者であることから逃れることができない。とはいえ、表現者にできることが何もないわけではない。
表現とは搾取を伴うものだ。写真、絵画、映画、演劇、音楽、文学、評論…。搾取を伴わない表現というものは、いったいありうるのだろうか? 搾取、収奪、奪うこと。写真は、被写体となった人物やモノ、出来事から視覚的/記憶的な搾取を行うことによって生まれる表現である。写真に撮られた被写体は、撮影者によって自身の何がしかを奪われてある。表現とはアウトプットであり、アウトプットの前にはインプットがある。そしてインプットからアウトプットへの過程では、何らかの収奪が行われる。
表現による搾取は、表現者自身がその対象となることもあれば、表現者以外の他者がその対象になることもある。表現者自身が対象になる場合、「私は奪われている」ということが、表現としての価値(すべてではないにしても)を担う。他者が対象になる場合、「その人は奪われている」ということが、表現としての価値(すべてではないにしても)を担う。そして、表現者はこの「表現の価値が搾取に負っているという事実」に自覚的でなければならない。
搾取を行った表現が、搾取の対価を「補償」することは期待できない。対象Aから奪うことによって成立した表現は、別の対象Bに何かを与えることはあっても、対象Aに代償を払うことはない。対象A→表現→対象Bという流れはあっても、対象A→表現→対象Aという流れは生まれえないのだ。搾取の主体と搾取の対象は、奪い/奪われる関係しか作りえない。それは、搾取の対象が表現者自身である場合も、表現者以外の他者である場合も同じである。
表現者自身が搾取の対象となる「自己表現」において、表現者は自身の表現によって奪われた存在となる。その喪失は、喪失の原因となった自己表現によって補填されることはなく、他の代替的な方法によって埋めるしかない。他の代替的な方法とは、生きていく過程で自然に、あるいは人為的に積みあがる「経験としての自己」である。表現者が自らを切り売りする表現では、だから、自身が失われていく喪失の速度と、その喪失を補填する速度との間に競争が生まれる。前者が打ち勝てば、それは表現者の自壊的な消費へ行きつくことになる。
表現者以外の他者が搾取の対象となる「他者表現」において、表現者は他者からの搾取を行い、搾取したまま、その対象を放置する。搾取の対象がその事実に気づいても、彼または彼女自身が表現者とならない限り、反抗する術はない。搾取を行った表現者は、「表現の価値」が「搾取された価値」よりも上位にあることを主張する。結果、収奪は「仕方のないこと」「価値あること」として許され、評価される。「表現の価値>搾取された価値」は、表現者にとっての揺るぎない公式なのだ。
表現者は、自身や他者とのこのような関係に「倫理的な後ろめたさ」を感じたからといって、自身が収奪者であることをやめることはできない。すべての表現はインプット、つまり奪うことに依っていて、インプットのない表現というものはあり得ないからだ。この倫理的な違和は、対価としての金銭によっても解消されることはない。表現によって収奪される価値と金銭によって得られる価値とは、交換不能な、相容れない価値である。金銭の支払いは、社会的なルールとしては有効であっても、表現の罪に対する本質的な解決にはならない。
このように表現者は、収奪者であることから逃れることができない。とはいえ、表現者にできることが何もないわけではない。人間のすべての行為は、意思に基づいている。個人的意思、集団的意思、顕在的意思、潜在的意思など、意思には幾多の種類があるが、意思のない行為はない。意思は行為のプロセスに関わるものであり、結果としての表現を支える、思考の軌跡である。そして結果としての表現へと至る意思のプロセスの中で、表現者は搾取に「自覚的」であることができる。
「搾取に自覚的である」ということは、ひとつの「倫理」である。そしてこの倫理には、表現から距離を置いた視点を持つこと。表現が搾取する対象に対して謙虚であること。表現を成立させているしくみに自覚的であることが含まれている。これは、「批評性」という言葉で言い表すことができる。批評とは、表現から距離を取り、対象に真摯に対峙し、自身と対象の成立要件に自覚的であることなのだ。批評~表現は、プロセスに対する批評的視点を、自身の表現のしくみそのものに内在させている。
批評~表現による搾取の自覚は、表現者が、自身の表現が持つ暴力性に対して批評的な意識を持ち続けることを意味する。自分の表現がいつ、誰から、何を搾取することによって成立しているのかに自覚的であること。そしてその自覚それ自体を、自身の表現が生まれるプロセスの中に組み込んでいるということだ。このとき、表現者と批評家はもはや切り離された存在ではない。表現者は批評家であり、批評家は表現者となる。表現と批評は、ここでは一者の中に同居し、同じ姿勢、同じ役割を持つものとなる。
表現は、「誰も傷つけない表現」を目指すことはできない。しかし、「誰を傷つけているかを知った上での表現」は目指すことができる。表現は例外なく、搾取に基づく暴力である。しかし、自身の暴力性を知った上で暴力を行使する人と、自身の暴力性に無自覚なまま暴力を行使する人との間には大きな違いがある。それは結果としての違いではなく、プロセスとしての違いである。そして表現にとって重要なのは、結果ではなくプロセスなのだ。
表現の暴力性に無自覚な表現ほど、危険なものはない。搾取に無自覚な表現は、それが与える負の影響に気付くことなく、正の影響にのみ目を向けている。そこには他者に対する配慮や理解が欠落し、搾取によって得られる成果、評価、地位のみを価値の拠り所としている。無自覚な表現者は、搾取を指摘されると、成果としての価値の側面をことさら強調し、「必要な犠牲にすぎない」と開き直る。その時、表現は搾取の口実へと堕してしまっている。そこに欠けているのは、「批評性」という名の謙虚さなのだ。
2020/3/19
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