本から顔を上げると、列車は栄に着いていた。お土産の入った紙袋に本を入れ、しばらく何も考えないでいる。
実家に2泊して帰る日の朝、僕は南側の窓辺に立って、子供の時分にいつも見ていた大通りを見下ろしていた。通りの交通量は多く、しかも多少の勾配があるため、一晩中自動車の走る音が響く。いつもこの通りに面した部屋で寝ていたため、今ではこの音にすっかり慣れてしまい、気にすることなく眠れるようになっていた。音は聞こえるものの、窓から通りの様子を見ることはできない。向こう側の歩道を歩く人や、自転車が見えるばかりである。
駅前の神戸屋で、遅めの朝食を食べる。父は不器用な手つきで、スクランブルエッグをゆっくりとちぎりながら口に運んでいる。店内は満席で、僕と父以外はすべて女性客だった。グループの客が席が空くのを待っていたが、待ちくたびれたのか、しばらくするといなくなっていた。母はこのあとダンスのレッスンということで、それまで僕が土産を買うのに付き合うと話した。父は食事を終えると、そのまま家に帰るそうだ。
デパートから地下鉄へと向かう出入り口で母と別れ、改札を入り、来た時と同じホームに戻ってくる。平日の昼、ホームはどこかひそやかな雰囲気で満ちている。しばらく待つと地下鉄が滑らかに入ってくる。空いたシートを見つけて座り、トートバッグから本を取り出し読み始める。ヴェネツィアの出版人は不本意な結婚をし、安定した生活を送りながらも、人生の何ものも実現できていないと感じ、ただ憔悴しているようだった。
本から顔を上げると、列車は栄に着いていた。お土産の入った紙袋に本を入れ、しばらく何も考えないでいる。名古屋へ着くと大勢の人が降り、その流れに潜り込むようにして改札を出て、地上へと向かう階段を上がる。地下鉄の出口から新幹線の改札までは遠い。現金で切符を買い、ホームの番線を確認して、5分ほど駅の待合で時間をつぶす。待合の売店でコーヒーを買う男の姿が見える。音の出ないテレビが、ニュース映像を流していた。
新幹線に乗り込むと、席を探し、通路側の客の足を踏まないように自分の座席に滑り込む。本を紙袋から出して、座席の上に置く。トートバッグと土産の入った紙袋を荷台に上げ、紙袋の中身が出てこないように位置を整えた。あとから来た客が、僕の前を通って窓際の席に座り、パソコンを開き仕事を始めている。列車は出発し、スムーズな進行でホームを飛び出していく。
主人公がヴェネツィアを去り、思いがけない人物に出会ったところで、列車は新横浜に到着した。窓際の乗客が降車したのにあわせて、本を閉じた。本の中で繰り返し訪れる試練に疲れ、現実の世界で休憩を取りたい気分になる。品川に近づくと、座席前のネットに本を入れ、荷棚からバッグと袋を降ろす。ヴェネツィアの不安な思いを抱えながら、品川に到着するのを待つ。ホームが見えてきて、僕はコートを羽織り、荷物を手にして通路に出た。
ホームに降りてすぐ、本を忘れてきたことに気が付いた。新幹線のドアはまだ開いているが、これから戻って本を取りにいく時間はもちろんない。閉まるドアを見つめ、忘れてきた本のことを思った。これでしばらくは、「ヴェネツィアの出版人」の世界に戻ることができなくなった。紛失の問い合わせをしてもよいが、それも面倒に感じる。ほかに欲しい本もあることだし、買い直すのも悪くない。
山手線で、品川から渋谷まで行く。渋谷の改札を出てバスの停留所へ向かうと、ちょうど自宅方向へ向かうバスが来たところだった。料金を払い、シートについて、スマホを見るなどして時間をつぶす。自宅近くのバス停がコールされ、慌ただしく降りる。道沿いのアパートの前にゴミが散乱していて、子供がそこからミカンの皮を拾い上げ、じっと眺めていた。交差点の向こう側に、自宅のマンションが見えてきた。
2020/2/27
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