おとなの掟

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

自分の予定表を見ると、人と会う約束が、大量に羅列されています。1日に2人、3人。会議のある日などはさらに多くの人と会うことになります。仕事で、プライベートで、人と会うことが、すなわち生活であるとも言えるような、そんな雰囲気です。

このように、人に会う約束があるというのはよいものです。人に会うことによって、自分以外の人の感情や考え、雰囲気、質感に触れることができます。そして、自分以外の人との間でそれらの感情や考え、雰囲気、質感を交換し、それまでの自分にないものを自分の一部とすることができます。

けれども、よいものであるにも関わらず、またよいものであるからこそ、人と会うことというのは難しいものです。人と会っている時、その時間は自分と相手がともに共有している時間です。私とあなた、2人であったり、私と皆さん、複数人であったり、私と私以外の人が時間を共有し、一緒にその間の人生を送ることを選択しています。

私はその時間をどのように過ごしているのか? また、私以外の人はその時間をどのように過ごしているのか? 「過ごす」という言葉の通り、時間をともにすることは「過ぎ去る時間」をともにするということです。非常な勢いで通り過ぎ、過去になっていく現在を、私とあなたは同じように過ごしていると言えるのだろうか? その実感は、どのようにすれば得られるでしょうか?

私と、私が会っている人が、ともに同じ時間を過ごしているのかどうか。その疑問に対する解答が見つかることはないはずです。私とあなたは、私と私にならない限り、「実のところ」を理解することはなく、真実と嘘の判別はできないからです。彼が本当のことを言っているのか、嘘をついているのか? 彼の笑顔は心からの笑顔なのか、体裁の笑顔に過ぎないのか?

本当は好き、本当は嫌い、本当は面白い、本当は面白くない、本当は信じている、本当は信じていない。どこを探しても、「本当」は見つからないでしょう。本当が見つからない中、私たちは暗闇の中を手探りで進むかのように、「一緒の時間」を過ごさなければなりません。そこには何の確信もないはずです。

つまり、私たちはある「疑問」を抱きながらしか、人と会うことはできません。それは、「この人は私とともに、どのような時間を過ごしているのだろうか?」という疑問です。そしてその疑問を解消するため、また誤魔化すため、また忘れるために、人はコミュニケーションスキルという名の手練手管を駆使することになるのです。

こうした手練手管はしかし、コミュニケーションを円滑に回す役には立っても、本質的な疑問を解決する手立てにはなりません。相手の思いや感情、考えの「本当」は、いつまでたっても、どこまで行っても、「察する」ことしかできません。表情や言葉、声、気配のちょっとした動きをヒントに、「そうじゃないかな」という予想をするだけです。

このような状況に、言葉はいたって無力です。言葉は嘘をつきますし、論理は形式的なものです。表情や声、感情もまた、それを「言語的」に受け取るならば、言葉と同じ帰結に至るでしょう。「言語的」とは、つまり「意味的」ということです。意味があるのか、ないのか、本当はどのような意味なのか? を問うことは、砂漠に向かって叫ぶのと同じことです。

人と会うこというのはだから、一種の「堂々巡り」を許容することだと言えます。行き着く先のない、同じ場所をぐるぐると回る、意味を探し続けて彷徨う旅、のようなものです。それは人生が続く限り続く「遅延」であり、答えの出ない「先送り」です。意味を求めることは、砂漠で水を求めることに似ています。

意味の見つからないところに意味を見つけようとする試みは、ある種の「夢想」のようなものなのかもしれません。人と会っている時間というのは、夢を見ているような時間なのかもしれません。目の前のあなたは、私の夢の中に生きているあなたなのか。あるいは、私は目の前のあなたの夢の中に生きている私なのか。「胡蝶の夢」ですね。

人と会うことに、こうしたうすらぼんやりとした夢のような風景を見ることを恐れるべきではない、と思います。確かな手応え、確かな共感、確かな一致、が得られないとしても、それは人と会うことの本質だからです。人と会うことに手応えを求めるのではなく、その手応えのなさをいかに注意深く観察し、感じることができるかの方が、より本質に近づくことのできる試みのような気がします。

コミュニケーションスキルだったり、言葉による約束だったり、文書による契約だったり、資料による情報だったりと、人はこうした「出会い」の欠陥を補うためのツールを数多く持っています。それらはすべからく、「人と会うこと」を円滑に、効率よく、効果的に進め、予定している目的を達成するための方策です。

そしてこうした方策によって得ることができるのは、「人と会うこと」の周囲にある、諸々の瑣末な事象です。周辺に散らばる小石を拾い集めて、何かしらの形や成果を生み出すことは、生きていく上で実務的に必要なことです。けれどもこうしたことがいかにうまく行えたからといって、それは人生を生きていくことにいくらも寄与することではないのです。

関係性のフェティシズム

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

親密さとは、なめらかな愛を伴うものです。そして、ちくちくとした居心地の悪さを伴うものです。人は人との関係の中で、人に直接接するインターフェースの部分と、人に見せることなく内に隠し持つシステムの部分とに分けられます。人と人は歯車のように噛み合いますが、それは両者のインターフェースが接しあう歯の噛み合わせによって、その動力がどこまで力強いものであるかが決まります。

噛み合う歯は、そのインターフェースがどこまで内側に食い込むものであるか、内部に肉薄するものであるかを表しています。その歯の浸透の度合いによって、「関係」の深さが決まるのです。インターフェースとシステムは地続きですが、浅い溝(みぞ)しか持っていない歯車の噛み合わせは緩いものです。それはシステムの働きを伝えるにはあまりにも不十分であり、ちょっとした衝動でかんたんに外れてしまう機構にすぎません。

意気投合、という歯車同士の完全な一致というものは、本当に存在するでしょうか? 長い付き合い、共通の嗜好、利害の一致、などにより強固な関係を持つかのように見える関係があったとして、それがどこまでインターフェースを超えたシステムにまで浸透するものであるかを確認することは不可能です。人と人とをまとめる強固なつながりが感じられたところで、それは表面的なイメージに過ぎないことが多いのです。

これは、ネガティブな話ではありません。むしろこのちくちくとした居心地の悪さ、一致しきれない残滓の残留、消化不良の感触こそが、関係を結ぶ上でのもっとも大切な手触りなのではないかと思うのです。こうした手触り、質感のようなものをイメージの一致、すなわち「共感」によって見えなくするよりも、ざらついた質感から目を背けず、きちんと認識することこそが、人との関係を楽しむための秘訣なのではないかと思います。

仮にインターフェースが一切の摩擦なしに噛み合っているように感じられたとしても、実際に駆動するシステムの回転数には、多かれ少なかれの齟齬があるはずです。こうした齟齬は、小さい程よい、大きい程よくないといった価値によって判断されるものではなく、その齟齬の中にこそ、またその齟齬の質の中にこそ、その関係に固有の本質が内在しているのではないかと思います。それは細部であり、関係の全体から見れば捕捉的なものです。

こうした関係性の機微に目を向け、意識的であること、機微を観察することは、関係性に対するフェティシズムを構成します。それは、関係は抽象的な観念ではなく、吐く息や握る手に感じる熱と同じように、具体的に触れることのできるモノであるとする考え方です。こうした「具体的な関係」は、現実の「誰か」を実感することのできる唯一の手段でもあります。それは、雰囲気やイメージによって形作られるデフォルメからは得られない「手ごたえ」です。

そこでは、秘密や嘘もまた、こうした機微を構成する重要な要素になります。正直さ、真実をいうこと、素のままの自分でいられること、自然、といった観念は、それが本当に正直で、真実で、素で、自然であるかを証明することはできません。それは証明することのできない、自己申告にすぎません。真実や本当は、その関係を信じるための重要な根拠にはならず、立場として、嘘や秘密と同列の一要素に過ぎません。

そして、こうした「嘘か本当かわからない」グレーな状況こそ、わかりのいい白か黒かの二者択一の世界観から抜け出るための条件であると言えます。白か黒かの世界観は極と極、1か0か、敵か味方か、愛するか殺すかの世界観です。それは「本当」という名の大義名分のもと、一方を選択し、一方を排除します。そして残った一方もまた、白か黒かに区分され排除されることで、半分の半分の半分へと削られていきます。

インターフェースとインターフェースの間には、距離があります。そしてシステムとシステムの間には、より多くの距離があります。そして、互いのシステムをインターフェースを通さず直に見ることはできません。インターフェースの手触りを通して、推測することしかできないのです。そして、その手触りこそが、唯一感じることのできる、見ることのできる「真実」です。その真実は、唯一の現実であり、現実のすべてです。そこに嘘があるとして、その嘘もまた真実ということです。

噛み合う歯車の進行は、時間とともにその形を変え、摩耗して浅いものとなったり、あるいはより深くまで歯が浸透することもあります。互いに離れ離れになったり、再び出会ったりすることもあります。それらはすべてかけがえのない瞬間を構成しますが、必ずしも変えの効かないものとは限りません。むしろ、「それでなければならない」ということなど一切なく、偶然「出会った」それだけの理由で、たまたまそこにいるだけなのです。

そしてこうした「たまたま」こそ、「〜でなければならない」という枷から逃れ、「運命」的な物言いから一歩外へ出るための施策でもあります。必然とは偶然から「作り上げられる」ものであり、運命とはたまたまから抽出された「ストーリー」です。それでも人はこうした「ストーリー」を紡ぐことによって、次の偶然を呼び込むための支えとします。それは音のしない、感触のない滑らかな運行ではなく、ざらついた、ギシギシという音を立てる厄介で面倒な進行なのだと思います。

デジタルで動物な

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

ドラマ「カルテット」の中でひときわ異質な存在が、吉岡里帆演じる有朱(アリス)です。彼女の行動は「お金」「男」「地位」に対して利己的であり、自分の得に対しては反射的に行動に移す瞬発力を持っています。その「反応」の速度は、実際の行動に至るまでに「通常であれば必要とするはずのプロセス」を一気に省略し、ショートカットすることによって実現されています。

通常人は、ある目的を達成しようと行動に移す前に、様々な判断を行います。例えば倫理的な判断、社会的な判断、利己的な判断などです。アリスはこれらの判断のほとんどすべてを不要なものとして削ぎ落とし、「利己的な判断」のみを残し最小化することによって、その行動の速度を上げています。

例えば「ヴァイオリンをメリカリで売る」というアイデアがもたらされれば、直裁的に「ヴァイオリンを盗む」という行動を実行に移します。また「株で損をする」という結果がもたらされれば、その直後、すぐ側にいた職場の店主を誘惑しお金を搾り取るという行動に転換します。それらはいわば「反射」に近いものであり、その反射は「ーを+に」「0を+に」変換することを目的としています。

彼女のこうした行動は、倫理や法律、体面、空気といった人間社会を構成するルールを無視することによって成立するものです。アリスには、自分が社会の一員であるという認識はありません。社会の一員としての個ではなく、食うか食われるかという弱肉強食の自然界に生きる個として、自分を存立させています。その意味で、彼女は「動物的」なのです。

動物は、自分の生命を維持するために必要かどうか? という判断に基づいて自身の行動を決定します。獲物がかわいそうとか、倫理的によくないのではないかとか、空気を読んでここはやめておこうなどといった「余計な判断」や「配慮」「忖度」は介在させません。シンプルに直接的であり、無駄な逡巡や感傷を含まないのが「動物的」な態度です。

吉岡里帆はこの役を演じるにあたり、「目が笑っていない」という条件を与えられました。それは、他の登場人物に対して一切の共感をしない、ということを意味します。社会のなかで、人は他の人の行動や感情を見て、それを理解することによって「共感」し、様々な「忖度」の中で組織の一員としての「社会性」を身につけます。

「目が笑っていない」吉岡里帆はこうした共感を切り捨て、自分の得になるか? という問いに対してYesかNoのどちらかによって答えを出します。それは「人間的」ならぬ「動物的」な姿勢ですが、かといってそれが人間から遠く離れたものかといえば、そうともいえません。人間独自の功利主義、「自分だけが得をすればよい」という考え方を極限まで肥大化させたのがアリスであると言えるからです。

動物が自然の中で生きているように、また人間が社会の中で生きているようには、彼女は「〜の中で」を生きてはいません。それゆえ彼女は孤独ですが、その孤独は自分が「生き残るため」の孤独です。彼女の中に「感情」はなく、あるのは「反応」だけです。そしてその反応は「自分にとって損か得か」という、ゼロイチの反応です。

彼女の「ゼロイチ」の反応、選択は、「動物的」なそれをさらに簡略化しているという点で「デジタル的」ですらあります。動物にも見て取れる感情の揺らぎは、彼女においては単純化され、喜怒哀楽の「喜怒」にまでデフォルメされています。そこには「哀楽」も存在しないようです。また、デフォルメされた「喜」の笑い声に心は入っていません。

感情のデフォルメは、すべての情報を0と1に還元して保存、流通させるデジタル的な世界観を思い起こさせます。シンプルでわかりやすく、迷うことがない情報。揺らぎのない、「曖昧さ」のない情報です。吉岡里帆は、「デジタル的」で「動物的」です。いわば、過度な生存本能の追求、「デジタルアニマリズム」の体現です。

吉岡里帆の存在は、社会の中では「弱者」の立場に位置しながら、なんとなく社会から離れることもできず、弱者同士肩を寄り添わせて「仲間」を作って安心している、カルテットのメンバーへのアンチテーゼです。吉岡里帆がカルテットの4人に対して与える執拗な打撃は、彼女が彼らに対して抱く、本能的な敵意に根ざしています。

松たか子、満島ひかり、松田龍平、高橋一生によるカルテットの4人は、それぞれの個性やこだわり、夢や理想を捨てきることができないでいます。彼らが大事にしているそれらの「らしさ」は、社会的には役に立たない、欠点とされる類のものです。ドラマにおいて、それは「何かが欠けている人たち」、「ドーナツの穴」として表現されます。

しかし彼らのそうした「欠落」は、細かな機微を構成しています。繊細で、壊れやすく、真実と嘘が混濁している。そのような複雑な感情の揺らぎが、彼らを社会から遠ざけ、かつ彼らを互いに寄り添わせる理由となっています。そしてこうした揺らぎこそが、人間という存在の面白さであり、「人間らしい」部分なのだというメッセージがこのドラマの主題であると思います。

社会の中心に位置し、確固とした地位を得るためには、こうした機微を捨て去り、割り切り、「欲」を追求する功利主義に走る必要があります。そして、こうした功利主義を極めた先にいるのが吉岡里帆なのです。その点で、「デジタルで動物な」吉岡里穂は、人間のある特徴を極限まで先鋭化させた存在であると言えます。彼女は、人間社会で生き残るために機能を絞り込み、特化させた機械(マシーン)なのです。

それに対して、カルテットのメンバーは「社会」未満の存在です。社会にいながら、社会の中心に位置するには欠けていることの多すぎる存在。そんな彼らを見て吉岡里帆がイラつくのは、当然と言えば当然なのだと思います。そして、社会で生き抜くために社会を超え出てしまった者と、社会で生き抜くには不足が多く社会未満に甘んじている者とが、社会を挟んで対峙する戦闘の行方が、このドラマの1つの見どころを構成しています。

吉岡里帆は去り際に(また再登場するのですが)、「不思議の国につれてっちゃうぞー」「ありすでした! じゃあね! ばいばい!」という捨て台詞を残します。あからさまなフィクション、「不思議の国」という名の「嘘の世界」がいつしか「現実の世界」に裏返っているかもしれないという恐怖を感じさせる、印象深い退場の方法です。

親密さの発見

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

全体と部分について、人についてもまた、全体と部分を同時に見ることはできないように思います。人の全体とは「この人はこういう人であるだろう」という言語化可能な印象であり、イメージです。こうした印象、イメージはいわば「デフォルメされたもの」であり、全体そのものではありません。「全体を一言でいえば」ということです。

「デフォルメされた全体」は、簡略化されたその性質ゆえに、流通しやすく、認知しやすいものです。それは言葉による説明、性格や経歴、職業、収入、実績、作品であったりするかもしれません。あるいは、身長、体重、歩く速さ、声の大きさなど、数字によって説明できるものかもしれません。

こうした言葉や数字の集積は、あたかもその人の「全体」を見ることができているかのような錯覚を呼び起こします。ネットに溢れるプロフィールや、履歴書、自己紹介などがそれにあたるでしょうか。こうした全体は、その人のあらすじ、概略を示すものです。つまり「すべて」ではなく、部分をそぎ落とすことによって「全体」と見せています。

そしてこうした「まやかしの全体」を突き破ることができるのは、部分、細部です。その人のちょっとした表情、声、言葉、仕草、行動、手触り。それらが小さいものであればあるほど、それはその人の特徴を表現しています。そしてこうした細部にこそ、人は感情を動かされ、その人に対する関心を呼び起こされるのです。

こうした細部は、記録ではなく記憶です。1点のみの記憶。しかしその細部の記憶によって、その人に対する理解や思い、感情は広く展開していきます。それまで折りたたまれていた感情が大きく展開し、広げられ、認識できないくらいまでの大きさへと広がっていきます。それはあたかも荘司における鵬の話のようです。

そして、その人の「真実」というものがあるとすれば、それはこうした細部にこそ「現れる」ものだと言えます。そしてそのようにして現れた細部に対して、「私」の側もまた同じく私の細部によって接すること。それによってこそ、私と私は、それぞれの真実によって関係を作り上げていくことができます。

親密さは、こうした細部の積み重ねによって作り上げられる環境、雰囲気です。そこには居心地の良い、気持ちの良い感情ばかりではなく、怒りや悲しみといったネガティブな感情も含まれます。そして、その結果、離別してしまうことがあったとしても、それもまた親密さのなせる業なのだといえます。

親密さは幸福なものばかりではありませんが、かといって離別もまた、それほどネガティブなものとは言えません。死や仲違い、離婚、解散、卒業、離職、いつしか疎遠になるなど。親密さには変化があり、新陳代謝があります。置き換え、入れ替え、理由のわからない決別は、親密さの結果によるものです。

こうした細部と全体を一度に見ることはできません。人の全体を見ようとすれば部分は見えなくなり、部分を見ようとすれば全体は見えなくなります。どちらを見ようとするかは、その人の倫理、価値判断の問題です。

また、細部の積み重ねがその人の「全体」を形作ることはありません。部分から全体を見るというアプローチは不可能であり、全体へのアプローチはそもそものはじめから全体から始めるしかないのかもしれません。それは最初から終わりまで「デフォルメされた全体」なのであり、それは「まやかしの全体」でしかないのです。

その人の細部に目を向ければ、まやかしの全体は見えなくなります。反対に、まやかしの全体に目を向ければ、その人の細部は見えなくなります。人は、どちらの方法で人を見るかを決めなければなりません。そこには観察の重要性があり、また観察の結果に対する反応の重要性があります。

写真や文章、音楽などは、その人の細部を、また親密さという名の関係をその内に宿しています。だからこそ、ブライアン・ウィルソンもアーサー・ラッセルも、人を選ぶこと、人と仕事をするということに拘り、またそこで躓きもしたのです。彼らの音楽は、関係を見つめることによって、また関係に失敗することによってもたらされたものです。

結局のところ、人の全体などというものは存在しないということです。人は関係によって、また変化によって、そして何より部分によって、全体をいつも崩落させています。「1つ」のイメージを形成することなどないのです。ロラン・バルトの、伊藤計劃の抵抗は、そこにあります。そして、その価値を構成するのは何より「記憶」、感情を呼び起こす「記憶」なのです。

カルテット

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

先日、「カルテット」というドラマを見ました。松たか子、満島ひかり、松田龍平、高橋一生の4人の主演する連続10回のドラマです。題名の「カルテット」とは弦楽四重奏のことで、主演の4人はヴァイオリン、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロを弾く、売れない弦楽奏者です。

彼らはある日、カラオケボックスで偶然同じ時間に扉を開き、出会います。そしてこの偶然(のちこにこれが偶然でないことがわかるのですが)をきっかけにカルテットを組み、軽井沢の別荘での共同生活が始まります。4人はそれぞれ秘密を持ち、恋と事件が交錯する中、物語が進んでいきます。

彼らはそれぞれ「欠点」を持ち、人生もうまくいっていません。何より彼らはコミュニケーションが下手であり、奥手であったり、声が小さかったり、融通が効かなかったり、寝てばかりいたり、自分の意見ばかり主張したりします。こうした「何かが不足している」ことが、ドラマの中では中心に穴の空いた「ドーナツ」に例えられます。

このドーナツの例えの由来は、老い、落ちぶれたピアニストであるイッセー尾形の話によるものです。彼の存在は、主人公たちにとっての「未来の自分」です。イッセー尾形は余命9ヶ月を売りに仕事を手に入れますが、9ヶ月を過ぎても亡くなることはなく、生活の場を転々とせざるを得ない、流浪のピアニストです。

そしてそのイッセー尾形の「遺言」を伝えるのが、この物語のもう1人の主人公、吉岡里帆です。吉岡里帆は男を誘惑し、成り上がろうとする悪女として登場しますが、その姿は悪女を通り越して狂女の域に達しています。それも、地下アイドル出身の「目が笑っていない」現代的な狂女です。

吉岡里帆はコミュニケーションスキルを異常なまでに高めることで「嘘の世界」を作り出し、その中で生きることに成功した女性です。そして、主人公たち4人もまたどこかに秘密、嘘を抱えながら生きている人たちです。けれども吉岡里帆が120%嘘の世界の中にいるのに対し、4人は嘘の中の小さな真実に希望を見出して生きています。

彼ら4人のドーナツは、この小さな真実によって「円」を構成しています。中心は相変わらず抜け落ちたままですが、4人の関係性は、その不完全さを楽しむ術のなかで成立しているのです。そしてもし「真実」というものがあるとすれば、それは100%の真実の中にではなく、こうした虚実のないまぜになった「不完全な関係」の中にこそあるのではないか、と思います。

弱さの肯定を、安易に「モラトリアム」と呼ぶことはできません。なぜなら、すべての人は弱さの中で生きていかなければならないのであって、弱さを否定するには「嘘」が必要になるからです。そしてその嘘は反対に弱さを暴き立てるものとなり、強さにつながることはありません。弱さに対しては、弱さに向き合うことしか対処の方法はありません。

大きな嘘の中の小さな真実は、救いであり、希望であり、現実の手応えです。小さな感情、何気ない言葉、それほど上手いわけではない3流の演奏。この不完全さの真実に気づいていない人は、現実を見ることのできていない、不幸な人でしょう。不完全な演奏と不完全な関係、不完全な人生。その中にあるリアリティというものを、このドラマは伝えてくれます。