話の話①

関係性としての「話」の中で、人は与え、与えられる関係にある。それは意識のプロセスである。

人の話を聞く、ということは、人が話をする、ということである。人は独り言を言うかもしれないが、それはいわゆる「話」ではない。話とは、話をする人と聞く人の、最低2者がいなければ成立し得ない、関係性そのものとしてある。話をする人と話を聞く人は、その「話」が持続する時間の中で、相互にその役割を交換し続ける。「話をするだけの人」「話を聞くだけの人」といった固定された役割は、関係性としての「話」の中に存在することがない。

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私は「読者」ではない

だからといって、読者として「自分」を想定してはいけない。なぜなら、私は「読者」ではないからだ。

本は、読者のために作られる。あらゆる仕事はサービス業であるけれど、本を作るという仕事も例外ではない。本という商品は、読者に提供するサービスとして作られる。例えば読者を楽しませるため、読者を試験に合格させるため、読者に新しい知識を得てもらうため、などなど。本にはそれぞれ固有の目的があり、読者がその目的をよりよく達成できる本が「よい本」であるとされ、「売れる本」であるとされる。その真偽はともかくとして、商品としての本はこのような特性を持っている。

そのため本の作者にとって、また編集者にとって、「読者を想像する」のはとても重要なことだ。本が語り掛ける相手が誰なのか? 年齢は? 仕事は? 年収は? 趣味は? どこに住んでいる? 家族構成は? といった様々な「属性」を想像し、中心となる読者を1人作り上げる。そしてその読者を中心に同心円を広げていき、読者として想定する範囲を設定する。円の色は中心ほど濃く、周辺に行くほど薄くなる。濃い読者ほどその本が想定する読者に近く、薄いほど遠くなる。

中心となる読者の属性とともに、読者が今直面している「課題」を考える。読者は、必要がなければ本を買わない。必要とは、直面している「課題の解決」である。読者の課題を解決するために、本は何をすればよいのか? その答えが、本の内容となり、本の仕組みとなる。多肉植物の育て方を知りたい読者には、その課題を解決するための本を。老後の資金に不安がある読者には、その課題を解決するための本を。こうした課題の解決に貢献することが、一般的な「本の価値」ということになる。

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価値について②

価値とはつまり、「条件によって切り取られたもの」なのだ。その条件を決めているのは人であり、社会である。

価値Aは、価値Aとして1つの価値である。また価値Bは、価値Bとして1つの価値である。そしてまた、価値Aと価値Bを比較した場合の価値A-Bというものが存在する。価値A-Bは、価値Aと価値Bを比較した場合の、相対的な価値である。そしてまた、価値A、価値Bは、それぞれさらに細かい価値として分割することができる。例えば価値Aは、価値A1、価値A2、価値A3のように分割できる。そして価値A1、価値A2、価値A3は、それぞれを比較した場合の相対的な価値A1-A2-A3を、相互の関係性として持っている。また価値AとBをまとめて、価値ABとして扱うこともできる。これを、新たに価値Cと名付けることもできる。

例えば犬と猫は、価値Aであり、価値Bである。犬と猫どちらが好きかという比較は、価値A-Bである。そしてパグとポメラニアンとスピッツは、価値A1、A2、A3である。この時、価値A1、A2、A3の間でどれが好きかという比較が価値A1-A2-A3である。しかし、価値A1とB1、パグとメインクーンを比較することは、できなくはないが少し無理がある。また価値Aを犬、価値Bをキリンとした場合、価値Aと価値B、つまり犬とキリンのどちらが好きかという比較もまた無理があるように感じられる。価値には、隣接した価値と隣接していない価値があり、隣接していない価値の比較は困難である。

こうした価値の隣接の有無、複数の価値の間の関係性は、与えられる条件によってさまざまに変化する。例えば「ペットとして」好きか嫌いかという条件において犬とキリンは比較ができないが、「動物として」好きか嫌いかという条件ならば、犬とキリンの比較は可能である。反対に「動物として」好きか嫌いかという条件において犬と猫を比較することは、妥当でないように思われる。つまり与えられる条件の違い、例えば「動物として」という条件と「ペットとして」という条件とでは、それぞれが「価値の比較対象として定める」範囲が異なっている。

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価値について①

価値を変化させるということは、自身に対して負荷をかけるということである。価値が変化する状況は、価値が変化しない状況に比べて、自身にかけられる負荷は大きなものになる。

価値という言葉の意味について考えたいと思ったのは、自分がどうしても拘ってしまうこと、こうでなければならないと感じてしまうこと、AではなくBを選ぶべきだと考えてしまうことなど、これら一連の窮屈な発想はいったいどこから来るのだろう? と思ったことがきっかけだった。こうした拘りは、その理由について考えることができるし、その正当性について説明することもできる。自分がそのように考えるに至った背景についても、後付けではあるのかもしれないが、ある程度は説得力のある形で提示できるはずだ。

けれど、それではその自分の拘りというものがどこまで妥当なものなのか。例えばBではなくAを選ぶ人に対して、自分がAではなくBを選ぶ理由を説明し、相手にも自分と同じようにAではなくBを選ぶように説得すること。それがどこまで妥当なものなのかと問われると、自分がこれまで考えてきた価値というものへの信頼は失われ、自分の判断は自分の判断としては適切なものであったとして、だからと言って相手の判断が間違っているとは限らないし、自分の考える価値というものが絶対だなどとはとても考えられない、という思いに駆られてしまう。

私たちは、世界を構成する諸要素について、「価値がある」「価値がない」という言い方をする。そしてある人にとっては価値のあることでも、別のある人にとっては何の価値もないことである、という事実を知っている。人はそれぞれ「価値がある」と思うことを選択し、「価値がない」と思うことを選択しないことで、効率的に行動し、生活している。価値のフィルターは、無駄な諸要素をカットし、有益な諸要素のみをインプットするための手段である。そして、こうした価値を取捨選択する際の基準は人によって異なるものであり、絶対的なものではないことを知っている。

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表現と搾取②

表現は、搾取の渦中に身を置きながら、その意味を反転させることができる。それは、「搾取されること」から「与えること」への転換である。

写す、描く、奏でる、書く、演じる。これらはすべて、「搾取でない」と言えるだろうか?

表現は、写すことによって、描くことによって、奏でることによって、書くことによって、演じることによって、他者からの搾取を行っている。それは、表現を実現するために必要となる、顕在的/潜在的なインプットである。そしてここで言う「他者」とは、人に限ることなく、社会や自然、動物、モノ、出来事であったりする。つまりそれは、「世界」を構成している諸要素である。

表現は搾取によって生まれるが、表現はそれ自体もまた搾取の対象となる。搾取されたくないのであれば、誰にも見られることのない場所に隠しておけばよい。しかし、表現をいったん外に出したなら、その時点から、表現は奪われる対象となる。表現Xを、見る、聴く、読む、考える、語る…。表現が搾取の対象となるのは、文字通りそれが「表に現れる」ことによってである。

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