本は「死体」ではない

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

前回に引き続き、「終わり」「終わらせること」について考えています。終わりの1つの体現として、「本」という媒体は適切なものであるように思います。それは、本のひどく重い、遅い、静的な性質によるものです。本のこうした特徴はある側面では大きな欠点となるものですが、欠点は裏返ると利点に変わります。欠点と利点は、切り離すことのできない同じ物事の裏表であると言えます。

本はそれ以上変化することのできない、静的な存在です。だからこそ、「終わらせる」こと、そしてそこから新しく「始めること」にとって、大きな役割を果たすものになり得るのだと思います。翻ると、本には「終わらせる」に足りるだけのだけの「重さ」が必要である、ということになります。

本の「終わらせる」性質は、本の作り手にとっての重要な分岐点、転回点、契機となる可能性を持つものです。それは海底に降ろされる錨として、大地に打ち込まれる楔としての役割を担い、終わりの確実な証明として、また始まりの重要な契機としての強度を持つことが求められます。

本は、軽さ、新しさ、変化しやすさを標榜するそのほかのメディアを模倣するのではなく、本だからこその欠点を生かした利点の追求を目指すべきです。知識、スキル、思想、経験、物語、なんでもよいのですが、見えないが確実に存在するこれらの事象を「見えるものとして残す」ということ。そのチャンスとリスクに賭けられるものが本である、ということになります。

軽さ、新しさ、変化しやすさを価値とする現在の雰囲気の中で、本は空気を読まない、場違いな存在であるように見えます。そしてその事実こそが、本を本たらしめる特徴であり、主流の価値に対する傍流の価値を提示することのできるポジショニングを実現しうるものだと思うのです。

本は、このように静的な存在であるにも関わらず、その内側には新しい出来事を始めるための萌芽が含まれています。それは本に内在する動的な機構であり、展開であり、体験です。本は、決して魂の失われた「死体」ではありません。

こうしたダイナミクスを、いかに実現できるか。それは、本を体験として捉え、「死蔵」という言葉とは真逆の開かれた媒体として、「アーカイブ」という言葉に反旗を翻すところから始まるように思います。それは一見、本の静的な特徴と矛盾するように思われますが、その矛盾の内包こそが、本が本であるための条件であるはずです。

受賞の連絡

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

先日、中村治さんの写真集「HOME~Portraits of the Hakka」が「さがみはら写真新人奨励賞」を受賞したという連絡がありました。

Facebookやメールで、普段お世話になっている方、写真集の制作や販売に関わっていただいた方へのお礼の連絡をして、ここでいったん、1つのことをやり終えた感覚でいます。

もちろん、「HOME~Portraits of the Hakka」の可能性はこれからであり、LITTLE MAN BOOKSでやりたいこと、やるべきことはいくらもあるわけですが、賞をいただくということで1つの区切りをつけていただけたということはとてもありがたいことなのだなと思います。

新しいことを始めるには何かを終わらせることが必要であり、終わらせることによって、そこを起点として新しい何かを始めることができると思っています。

賞というものに意味があるとすれば、それは物事の終わりを自分自身ではない外部から与えてもらえるということ。そして、その終わりを関係する皆さんと共有し、新しい方角に向き合う準備を促してもらえることにあるような気がしています。

「HOME~Portraits of the Hakka」に掲載された写真は、今回がはじめての発表というわけではありません。2011年、ニコンギャラリーで展示を行い、写真集制作の話が出ていたものの実現せず、約10年の期間を経てあらためて再発表、写真集としての刊行に至った経緯があります。

「HOME」のテーマはこの10年間、中村さんの中で終わることなく、生き続けてきたものです。その過程で「HOME」の写真群に対する中村さんの解釈は変化し、本という形でFIXされた表現には、2011年のそれに対して大きなリファインが施されました。

もし2011年の震災が起こらず、中村さんがそこで「HOME」を終わらせることができていたとしたら、そのあとの変化も生まれず、今回の写真集も成立しなかったかもしれません。終わらないものを無理に終わらせるのではなく、終わることのできる最良のタイミングを待つこと。それもまた、写真家としての1つの嗅覚であるように思います。

時間の長さに客観的な物差しはなく、個別の事象が個別の流れの中で時を刻み、それが堆積する中、どこかで臨界点を迎える。長い、短いではなく、その流れとしての時間を静かに観察し、機会としてのタイミングに気づいていることができるかどうか。

流れの中で様々な感情や人が交錯し、終わり、また始まって行く。そのダイナミックなあり方を体現する1つの形として、LITTLE MAN BOOKSはこれからも活動を続けていきたいと思います。

話の話①

関係性としての「話」の中で、人は与え、与えられる関係にある。それは意識のプロセスである。

人の話を聞く、ということは、人が話をする、ということである。人は独り言を言うかもしれないが、それはいわゆる「話」ではない。話とは、話をする人と聞く人の、最低2者がいなければ成立し得ない、関係性そのものとしてある。話をする人と話を聞く人は、その「話」が持続する時間の中で、相互にその役割を交換し続ける。「話をするだけの人」「話を聞くだけの人」といった固定された役割は、関係性としての「話」の中に存在することがない。

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私は「読者」ではない

だからといって、読者として「自分」を想定してはいけない。なぜなら、私は「読者」ではないからだ。

本は、読者のために作られる。あらゆる仕事はサービス業であるけれど、本を作るという仕事も例外ではない。本という商品は、読者に提供するサービスとして作られる。例えば読者を楽しませるため、読者を試験に合格させるため、読者に新しい知識を得てもらうため、などなど。本にはそれぞれ固有の目的があり、読者がその目的をよりよく達成できる本が「よい本」であるとされ、「売れる本」であるとされる。その真偽はともかくとして、商品としての本はこのような特性を持っている。

そのため本の作者にとって、また編集者にとって、「読者を想像する」のはとても重要なことだ。本が語り掛ける相手が誰なのか? 年齢は? 仕事は? 年収は? 趣味は? どこに住んでいる? 家族構成は? といった様々な「属性」を想像し、中心となる読者を1人作り上げる。そしてその読者を中心に同心円を広げていき、読者として想定する範囲を設定する。円の色は中心ほど濃く、周辺に行くほど薄くなる。濃い読者ほどその本が想定する読者に近く、薄いほど遠くなる。

中心となる読者の属性とともに、読者が今直面している「課題」を考える。読者は、必要がなければ本を買わない。必要とは、直面している「課題の解決」である。読者の課題を解決するために、本は何をすればよいのか? その答えが、本の内容となり、本の仕組みとなる。多肉植物の育て方を知りたい読者には、その課題を解決するための本を。老後の資金に不安がある読者には、その課題を解決するための本を。こうした課題の解決に貢献することが、一般的な「本の価値」ということになる。

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価値について②

価値とはつまり、「条件によって切り取られたもの」なのだ。その条件を決めているのは人であり、社会である。

価値Aは、価値Aとして1つの価値である。また価値Bは、価値Bとして1つの価値である。そしてまた、価値Aと価値Bを比較した場合の価値A-Bというものが存在する。価値A-Bは、価値Aと価値Bを比較した場合の、相対的な価値である。そしてまた、価値A、価値Bは、それぞれさらに細かい価値として分割することができる。例えば価値Aは、価値A1、価値A2、価値A3のように分割できる。そして価値A1、価値A2、価値A3は、それぞれを比較した場合の相対的な価値A1-A2-A3を、相互の関係性として持っている。また価値AとBをまとめて、価値ABとして扱うこともできる。これを、新たに価値Cと名付けることもできる。

例えば犬と猫は、価値Aであり、価値Bである。犬と猫どちらが好きかという比較は、価値A-Bである。そしてパグとポメラニアンとスピッツは、価値A1、A2、A3である。この時、価値A1、A2、A3の間でどれが好きかという比較が価値A1-A2-A3である。しかし、価値A1とB1、パグとメインクーンを比較することは、できなくはないが少し無理がある。また価値Aを犬、価値Bをキリンとした場合、価値Aと価値B、つまり犬とキリンのどちらが好きかという比較もまた無理があるように感じられる。価値には、隣接した価値と隣接していない価値があり、隣接していない価値の比較は困難である。

こうした価値の隣接の有無、複数の価値の間の関係性は、与えられる条件によってさまざまに変化する。例えば「ペットとして」好きか嫌いかという条件において犬とキリンは比較ができないが、「動物として」好きか嫌いかという条件ならば、犬とキリンの比較は可能である。反対に「動物として」好きか嫌いかという条件において犬と猫を比較することは、妥当でないように思われる。つまり与えられる条件の違い、例えば「動物として」という条件と「ペットとして」という条件とでは、それぞれが「価値の比較対象として定める」範囲が異なっている。

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