品川から出発した新幹線は、すでに東京駅で大勢の人が乗り込んでいた。
僕は名古屋の実家に帰るため、品川に向かった。品川までは、三軒茶屋、渋谷を経由して、3つの列車を乗り継ぐことになる。山手線で渋谷から品川へ向かうまでの時間はいつも、想像より長く感じられる。僕は「ヴェネツィアの出版人」という本を開き、読み始めた。渋谷を出て2つ3つ駅を過ぎると、次第にシートに空席が目立ち始める。ふと顔を上げると、品川の1つ前、大崎に着いたところだった。乗り過ごさないように本を閉じ、グレーのトートバッグに投げ入れる。
品川駅の売店でお土産を見繕い、クリスマス仕様のフィナンシェを買う。クレジットカードを使える券売機を見つけたが、4桁の暗証番号がわからない(もう何年も忘れたままになっている)。現金を使える券売機を探して、3分後に発車する列車の指定席券を買った。土曜日の午後だったけれど列車は空いていて、隣と後ろのシートは空席になっている。
品川から出発した新幹線は、すでに東京駅で大勢の人が乗り込んでいた。席の上の荷物入れはいっぱいで、ほかの乗客のスーツケースの間にトートバッグと土産の入った紙袋をなんとか押し込んだ。コートは膝の上に置き、トートバッグからは本だけを出しておく。「ヴェネツィアの出版人」は想像していたような評伝とはちがい、フィクション仕立ての読み物だった。序章の読みづらさが終わると、次第に面白さが増してきた。
品川を出ると、早々に車内販売がやってきた。コーヒーを注文し、350円を払う。コーヒーには、飲み終えた後に出るゴミを入れるための細長いビニール袋がついている。コーヒーを飲み、本を読み進め、外を流れる景色を見る。僕は、新幹線が透明だったなら自分はどのように映って見えるのだろうと考える。名古屋が近くなり、僕は、ルネッサンス期のヴェネツィアから自分の心を切り離し、新幹線の中にいる自分に気持ちを取り戻した。
僕は席を立って荷棚に手を伸ばし、トートバッグと紙袋を取り上げた。手元の本を、紙袋にしまい込む。コートを着て、荷物を手に取り、背もたれを元の位置に戻す。名古屋で降りる人の列の最後尾に並び、ホームへの到着を待った。新幹線を降りると、改札へと降りる階段へ進み、階段を降りながら、ポケットに入れておいた切符を取り出した。
改札を出ると、東山線の方向へ向かって歩き始める。新幹線の改札から東山線の乗り場までは、比較的距離がある。途中にある書店や土産物屋を横目に、早足で歩く。ここから先はPASMOを使える。チャージも、渋谷駅で心配のない金額まで行っておいた。階段を降り、改札を入ると、いつもの地下鉄東山線、名古屋駅のホームが目の前に伸びている。大勢の人が並んでいるが、僕は多くの乗客が栄駅で乗り換えることを知っている。
とはいえ、並ぶ人があまりに多かったのと、ホームに着いた時にはすでに列車が入ってくるところだったので、1つ後の列車を待って乗り込んだ。実家のある駅まで、20分弱だろうか。紙袋から本を取り出し、またヴェネツィアの人々の心の中へと入り込む。いつもの見慣れた黄色いホームを窓の外に感じたところで、僕は本を閉じ、袋に入れて列車を降りた。
実家に近い出口は、改札から一番遠いところにある。「痴漢に注意」という貼り紙のある薄暗いホームを歩いていく。長い階段を上がると、外の明るい光が差し込み、ヤマダ電機の巨大な建物が見える。道は緩やかな登りが続き、両脇に幾つものマンションが立ち並んでいる。いつもの、変わり映えのしない道を5分ほど歩くと、実家のマンションが見えてくる。
子供の時分、毎日歩いたマンションの通路を記憶にもまれながら歩き、エレベーターで5階まで上がる。エレベーターの扉が開くと、壁に貼られた「5」という金属プレートが目に入る。各戸の扉だけが当時のものから交換され、今風の雰囲気を発している。実家の扉には、金属でできた魚のプレートがかかっている。呼び鈴を鳴らすと、扉の向こうから声がする。僕はポケットに手を突っ込んで、扉が開くのを待った。
2020/2/16
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