こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。
前回に引き続き、「終わり」「終わらせること」について考えています。終わりの1つの体現として、「本」という媒体は適切なものであるように思います。それは、本のひどく重い、遅い、静的な性質によるものです。本のこうした特徴はある側面では大きな欠点となるものですが、欠点は裏返ると利点に変わります。欠点と利点は、切り離すことのできない同じ物事の裏表であると言えます。
本はそれ以上変化することのできない、静的な存在です。だからこそ、「終わらせる」こと、そしてそこから新しく「始めること」にとって、大きな役割を果たすものになり得るのだと思います。翻ると、本には「終わらせる」に足りるだけのだけの「重さ」が必要である、ということになります。
本の「終わらせる」性質は、本の作り手にとっての重要な分岐点、転回点、契機となる可能性を持つものです。それは海底に降ろされる錨として、大地に打ち込まれる楔としての役割を担い、終わりの確実な証明として、また始まりの重要な契機としての強度を持つことが求められます。
本は、軽さ、新しさ、変化しやすさを標榜するそのほかのメディアを模倣するのではなく、本だからこその欠点を生かした利点の追求を目指すべきです。知識、スキル、思想、経験、物語、なんでもよいのですが、見えないが確実に存在するこれらの事象を「見えるものとして残す」ということ。そのチャンスとリスクに賭けられるものが本である、ということになります。
軽さ、新しさ、変化しやすさを価値とする現在の雰囲気の中で、本は空気を読まない、場違いな存在であるように見えます。そしてその事実こそが、本を本たらしめる特徴であり、主流の価値に対する傍流の価値を提示することのできるポジショニングを実現しうるものだと思うのです。
本は、このように静的な存在であるにも関わらず、その内側には新しい出来事を始めるための萌芽が含まれています。それは本に内在する動的な機構であり、展開であり、体験です。本は、決して魂の失われた「死体」ではありません。
こうしたダイナミクスを、いかに実現できるか。それは、本を体験として捉え、「死蔵」という言葉とは真逆の開かれた媒体として、「アーカイブ」という言葉に反旗を翻すところから始まるように思います。それは一見、本の静的な特徴と矛盾するように思われますが、その矛盾の内包こそが、本が本であるための条件であるはずです。