本の完成イメージを作り上げることは、本を1つのパッケージとして考え、様々な側面からシミュレーションしてみることだといえる。
本の完成イメージは、机上の空論である。いまだ何の手がかりもないところから、完成した本の全体をイメージし、制作に携わるすべての人の間でそれを共有する。見えないものを共有するのは難しい。いまだ、文章も、デザインも、写真もできていない状態で、本という形あるモノをイメージしなければならないのだ。この完成イメージは、視覚的、物語的、商品的という3つの側面から検討することができる。
視覚的なイメージには、例えば本のサイズやページ数、厚さ(束幅)、紙の色、フォント、本文のデザイン、カバーのデザインなどがある。これらは本を視覚的に構成する要素群で、サイズのように数値で表現できるものもあれば、デザインのように数値では表現できず、紙の上、もしくは頭の中でラフを描いてみることでしかシミュレーションできないものもある。
物語的なイメージを担うのは、目次構成である。目次は台割と呼ばれ、本全体の筋書きがそこに表現されている。筋書きはページと対応づけられ、台割を見ることによって、ページをめくり、読んでいくという読者の体験をシミュレーションすることができる。小説に限らずすべての本には筋があり、ページの進行とともにストーリーが進んでいく。
商品的なイメージとは、本を単なるモノとしてではなく、商品として流通するものとして考えたときのイメージである。書名や価格、対象読者、その本を読んだ読者が得られる効果、また、目指す読者に届くまでの導線の設計などがここに含まれる。どんな読者が、何を目的に、どのような経緯でこの本に出会い、購入にまで至るのか? 商品としての本がたどる道をシミュレーションすることが、商品的なイメージを考えることになる。
このように、本の完成イメージを作り上げることは、本を1つのパッケージとして考え、様々な側面からシミュレーションしてみることだといえる。このシミュレーションは、台割やラフ、企画書のような形で表現され、複数の人の間で共有される。そして、「 視覚的/物語的/商品的 」といった3種類の側面すべてを把握し、本の制作の始まりから終わりまでをコントロールしていくのが、編集者の役割だといってよい。
例えば物語的なイメージは、著者との間で共有しても、デザイナーとの間では共有しないかもしれない。また視覚的なイメージは、デザイナーとの間で共有しても、著者との間では共有しないかもしれない。パズルのピースすべてを持っているのは、基本的に編集者しかおらず、視覚的なピースはデザイナー、物語的なピースは著者、というように、それぞれ担当するピースが分担して割り当てられている。
こうしたイメージを構成する要素は、それぞれが独立して存在しているわけではない。それぞれの要素は密接に関係しあい、整合性のある統一体、すなわち抜けのないパズルの全体を形作っている。例えば対象読者とデザイン、価格とページ数、台割と読者の目的といったように。本の完成イメージは、串に刺されたおでんのように、複数の要素が1本の串、すなわち一貫性によって中心を貫かれていなければならない。
またこうしたイメージは、視覚的/物語的/商品的の3つのいずれかに完全に分類されるものでもない。例えば本のサイズは視覚的要素に分類されるが、それは書店の棚という考え方の上では「商品的」要素でもある。また目次は物語的要素に分類されるが、目次の構成をツメやチャート図のような形で表現すれば、それは「視覚的」要素にもなりうる。1つの要素は、異なる方向から光を照射することで異なる顔を見せるのだ。
要素どうしの矛盾は、本というパッケージの破綻につながる。1,000円の本に豪華なデザインは合わないかもしれないし、シニア向けの本に小さな文字は合わないかもしれない。例外はあるが、その例外は意図された、織り込み済みの例外でなければならない。その本が読者に購入され、読まれるまでのことを想定して、 台割から体裁、デザイン、対象読者に至るまで、矛盾のないイメージが作られている必要がある。
編集者は、こうした「本を1つのパッケージとしてイメージする」という作業を通じて、必要なものと不要なもの、適切なものと適切でないものとを選り分けていく。完成イメージは、「編集」を行う上ですべての基準となるものだ。イメージが曖昧な状態で、また矛盾を抱えた状態で実制作に入ってしまうと、いずれどこかで問題に直面し、無理な軌道修正を迫られることになる。
2020/1/9
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