LITTLE MAN BOOKSは、自分を縮小していく意志を持っている。
「LITTLE MAN BOOKS」という名前は、とある中欧の映画のタイトルからつけられている。その映画は、わかりやすくて、小さくて、普通で、奇妙で、大きくて、わかりにくくて、そして、とても大事なことを伝えてくれる映画だった。「LITTLE MAN」という言葉は一見すると「小さい人」と訳しそうなものだけれど、LITTLE MAN BOOKSではこれを「普通の人」という意味で使っている。
けれども、「普通の人」というのはいったい何だろう? 人はそれぞれ皆、唯一無二の「特別な人」なのではないだろうか? 性別、職業、学歴、収入、地位、住んでいる場所、育った環境などによって。また性格、考え、能力、嗜好、身体などによって、人は自分を他とは違う人間として認識する。
人は、自分を他人に対して「特別」だと考えることで、自分という存在の輪郭を確かなものにしようとする。自分を他の人よりも高く見ることで優越感を、他の人よりも低く見ることで劣等感を得る。それは、自分だけでなく、他人を見るときの基準としても採用される。そして、その差を大きくすることで、自分が他人とは異なる価値を持っていると考えるようになっていく。
「特別」は、他人との違いをより大きなものにしていく方向へと、自分の行動や意識を変化させる。「もっと強く」「もっと大きく」「もっと偉く」。「もっと」に際限はなく、「自分」という意識は肥大化していく。そしていずれ限界にぶつかり、肥大化した意識がはじける瞬間がやってくる。価値は反転し、「自分は特別な人間ではない」という自意識に変化する。「特別」には、正と負の2面がある。そして、「特別」の正と負は容易に反転する。ここで、自分は他人を見ていたようでいて、実は他人と比較した自分しか見ることができていなかったのだということに気付く。
LITTLE MAN BOOKSは、自分を縮小していく意志を持っている。自分という意識を小さくしていくことで、自分と他人との違いもまた、ミニマムなものとなっていく。それは1つの「粒子」である。そこではじめて、自分も他人も「普通」であり「同じ」であるということ。そこから反転して、だからこそ自分も他人も「特別」であり「異なる」のだ、という意識へ向かうことができる。「普通」と「特別」という対立する2つの考え方は、縮小された「LITTLE MAN」の中で撹拌されて混じりあい、解消される。意識は、もっと大きくではなく、もっと小さく、より細かなディテールを観察する方向へと向けられていく。
ミニマムに縮小された粒子と粒子は、常に動的な関係性の中にある。同じ世界が2度立ち現れることはなく、常に1回限りのシーンが生まれては消えていく。1つの粒子が動けば、その動きは周辺の粒子に影響を与え、全体に変化を及ぼす。粒子の動きによって新しい関係性が生まれ、新しい世界が姿を見せる。それは比喩ではなく、ただ現象である。無数の粒子はパラレルに動き、互いに影響を与え、その影響は受け継がれていく。それらの粒子は互いにほとんど同じでありながら、まったく同じというわけではない。また、ほとんど異なるけれども、まったく異なるわけではない。
LITTLE MAN BOOKSは、こうした考え方を、本を作るという実践の中で試行し、考え続けるための、1つの場所である。LITTLE MAN BOOKSは目指すべき明確な方向性を持たず、波の間を、粒子として漂っている。しかし流れに飲まれるわけではなく、小さなオールで舵を取っている。自分の意思を持ちつつも、アンコントロールとコントロールの間で揺れ続けること。プロセスのただなかに、注意深く観察を続けながら、居続けること。
2019/12/4
littlemanbooks.net