写真集「HOME」のこと②

中村さんは写真集を、ひとつの世界として見立てていた。

写真集の編集作業は、とても順調に進んでいった。写真は、必ず入れたい第1候補と、入れるべきかどうか迷う第2候補、入れるべきでないと考える第3候補の3つの山に分けてセレクトしていった。僕と中村さんで、意見が異なるということはほぼなかったように思う。とはいえ、入れたいけれども、入れるとバランスが崩れてしまうといった写真が何枚かあった。あえてバランスを崩すという選択肢もあった中で、最終的には入れない方向で話がまとまった。中村さんの意志により、今回の写真集は、余計なものをそぎ落としていくという方向で走り続けた。

ある時、僕は「中村さんにとって写真集とはどのようなものですか?」といった趣旨の質問をした。中村さんはそこで、自分が好きな写真集を僕に見せて、1枚1枚の写真にじっくり向き合える写真集がよい、と答えてくれた。カタログ的に、写真がぎっしりと詰め込まれたものではなく、1枚1枚を大切に見てもらえる写真集。そのために、見開きの片ページを、原則白ページにすることにした。

また、中村さんは写真集を、ひとつの世界として見立てていた。ページを開くと、その世界の中に入っていけるもの。ふとまたその世界を訪れようと思った時、本を手に取りページをめくれば、再びその世界を訪れることができるようなもの。そのためには、写真の並びはもちろんのこと、写真に写り込んでいる被写体を照らす光やその色、また闇の中に把握される見えないものの存在など。すべての要素が、写真集の世界を構築するために用いられるべきだった。

写真を選びながら、中村さんはそれぞれの写真についてのエピソードを話してくれた。その家から成功者が出ると建てられる、竜が巻き付いた塔の話。ポラロイドをもらって姿を消したお婆さんのあとを追って家の中に入ると、すでにそのポラが壁に飾られていた話。写真を撮らせてほしいというと、家に戻って一張羅の服を取りに行くお婆さんの話。土楼の土壁に刺さったお香や、祠にまつられた先祖の話。そして中村さんは、今回の写真集を、黄色い光で満たしたいと考えていた。それは土楼の黄色い土壁を反射した美しい光。中村さんの記憶の中にある、客家の光だった。

中村さんの「客家の光」を表現するための試みは、印刷にあたっての見本となるプリントの作成を困難なものにした。客家の写真は、ハッセルブラッドという中判カメラで撮影したもので、フィルムとして残されている。写真を補正しプリントするには、アナログフィルムをデジタルデータへと変換するスキャニングの作業が必要になる。中村さんはさまざまなスキャナーの機材を試し、スキャンしたデジタルデータを調整し、プリントしては、自分の思う光と、必要なディテールがそこに現れているかを確認する作業を繰り返した。最終的には、高性能なフラットベッドスキャナを持つレンタルスタジオを借りて、そこで得たスキャン結果を、今回の写真集で使うデジタルデータとすることになった。

僕は、プリントがやり直されるたびにディテールが生まれ変わり、今までは見えていなかった、人の肌や皺の陰影、いきいきとした色味、衣服の生地の質感、背景から人の姿が浮かび上がるときの立体感、闇に紛れて見えるか見えないかわからないほどの細かな明暗の差が現れ出てくるのを見た。以前のプリントでは平面的で単調だった写真が、新しいプリントでは生まれ変わり生命を得ているのを見た。それによって、候補からは外れていた写真が第1候補にまで繰り上げられたこともあった。

僕が心配していたのは、写真の順番だった。写真集において、写真は本という形式に合わせて直線的に並べられる。そこには、1枚1枚の写真を見ているときには存在しなかった、流れ、ストーリーが生まれてくる。本とは体験であり、その体験とは、時間軸とページに沿って順番に読まれることによって生まれてくるものだ。写真集もまた、例外ではない。

写真のセレクトをあらかた終えて、次の機会に中村さんの自宅へ行くと、床一面にプリントが並べられていた。それは、写真集のページ構成に沿って中村さんが順番を考え、配置したものだった。僕は床の写真を順番に眺めながら、頭の中で本の形へと落とし込み、写真集のページをめくる体験をシミュレーションしていった。そこで僕は、僕の不安が杞憂だったことを知った。写真は見事に並べられ、一部の懸念点を残して、ほとんど完成されていた。

結局のところ、写真集「HOME」の実現にあたって僕が果たした編集者としての役割は、ごくわずかなものだったと思う。それは中村さんの中に、確固としたビジョン、完成形がすでに出来上がっていたからで、それは一朝一夕で生まれたものではなく、長い期間にわたって中村さんの中で形作られていったものなのだと思う。僕はそこに寄り添い、話を聞き、聞いた話に対してわずかなリアクションをするだけでよかった。それは、編集者という役割の、1つの理想的なあり方だったのではないかと思っている。

2019/11/25
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