タイミングについて

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

よく、「タイミング」ということについて考えます。なにかことを起こそうとするとき、なにか決定をしようとするとき、なにより重要なのはタイミングです。「無理」という言葉は文字通り「理が無い」ことですが、この「理」はここでいう「タイミング」に近いように思われます。理がなければ物事がうまくいかないように、タイミングが悪ければ物事はうまくいかない。タイミングとは、「理が理となるタイミング」のことなのです。

タイミングは、「待つ」ことが肝要です。タイミングは自分のそれまでの行動の結果として訪れるものですが、「いつ」「どこで」「どのように」訪れるかをコントロールすることはできません。タイミングは「準備」することはできますが、必ずしも「予想通り」のタイミングが訪れるとは限りません。むしろ「予想していなかった」タイミングが訪れることも多く、そのとき、「予想通り」でなかったことに落胆するのではなく、その予期せぬ出会いを積極的に取り入れていく必要があります。

タイミングで重要なのは、それが予想したものであるかそうでないかにかかわらず、そのタイミングの「訪れ」に「気づく」ことができるかどうかです。「準備する」「待つ」そして「気づく」。それは積極的にチャンスを取りに行くという「能動的」なスタンスではなく、自分と周囲の環境との関わりに半ば関与し、半ば身を任せる、「積極的な受動性」に基づく考え方です。それは、「積極的に待つ」姿勢なのです。

私がタイミングを待つのは、主に本を作るプロセスにおいてです。作りたいな、と思う本があったとしても、積極的に著者を探すようなことはしません。本のイメージを思い浮かべ、なんとなく、ぼんやりと「こんな風にしたらいいかな」と考えます。これが「準備」です。そして、頭の片隅に置いておき、思い出した時に思い出します。これは小さなタイミングです。そんな感じで焦ることなく、折に触れて思い出したタイミングで、また「こんな風にしたらいいかな」と考えます。そのようにして、少しずつ前に進んで行きます。この全体のプロセスが「待つ」です。

そうこうしているうち、不意に、思っていた本を作るためのきっかけ、例えば著者が見つかる、会社からなんらかの要請がある、コンセプトの重要なヒントが見つかる、参考になりそうな本が見つかる、などのタイミングが到来します。このタイミングは、それまでの小さなタイミングに比べ、少し大きなタイミングです。そしてこの大き目のタイミングをきっかけとして、プロセスは次のフェーズに移ります。

次のフェーズに移っても、それで「待つ」ことが終わりになるわけではありません。さらに次のフェーズに移るためには、「準備」と「待つ」を継続することが必要になります。例えば目次が思い浮かぶこと、本の仕組みが見つかること、デザインのヒントが見つかること、よいタイトルが思いつくこと、などです。こうしていくつかの準備、待つ、タイミングの気づきを経て、最終的に本が完成することになります。

こうした「タイミングを待つ」プロセスがスムーズに進むかどうかによって、本の仕上がりは大きく左右されます。待ちきれず無理に先へ進めて行き詰まったり、タイミングに気づかず次のフェーズに進むチャンスを逃したり、間違ったタイミングで動いて軌道を逸れてしまったりといった「悪手」を打つ落とし穴は、あちこちに開いています(バッドタイミング)。そしてこうした悪手は、往々にして「待てない」ことによって生まれるものです。

よく頭に思い浮かべるのが、「急いては事を仕損じる」という諺です。今、焦っていないか、急いでいないかを自分に問いかけて、そこに焦りの感情があれば、意識的に抑えるようにします。タイミングとは無関係なそのような状況で行動を起こしても、うまくいくことはないからです。そこには理がなく、タイミングがありません。何より心が焦っていては、タイミングの訪れに気づかなかったり、タイミングをまちがえたりして、チャンスを逃してしまうことになります。

こうしたことを考えるようになったのは、これまでに物事を急いだり、慌てて始めたりして失敗した経験が幾度もあるからです。急ぐことの背景には、多くの場合「よからぬ欲」や「不安」があります。「もっともっと」という欲、また「〜したらどうしよう」という不安に、物事をよい方向に進めていく力はありません。むしろ、これらは物事を悪い方向へと向けていく「自意識」です。タイミングを「待つ」というのは、こうした悪い自意識から逃れる方法でもあります。

自意識というのは、コントロールしたい、自分の思い通りにしたいという欲求を伴いがちです。それは我欲であり、傲慢や偏見、盲目を生みます。それに対してタイミングを「待つ」ことは、自分が関与することのできる範囲に対する謙虚さを意味しています。それは、「タイミング」という名の「運」や「縁」を待つこと、受け入れること、身を任せることを意味します。「自分」とは、様々な関係性の波の中で揉まれる1つのコルクのような存在に過ぎないのです。