全体と部分(認識論)

こんにちは。
LITTLE MAN BOOKSの大和田です。

不思議なことですが、全体と部分を同時に見ることはできません。全体を見ている時、部分を見ることはできません。部分を見ている時、全体を見ることはできません。それがどれだけ小さなもので、全体を一望できるものであっても、その細部を見ている時、全体は見えていないように思われます。

例えば木を見る時。木の全体を眺めている時、その木の1枚1枚の葉に注目することはできません。そして1枚1枚の葉に注目すると、今度は木の全体から意識が逸らされてしまいます。また街全体を見るとき。どこか高台に立って街の全体を眺めるとき、1つ1つの家に注目することはできません。家に注目すると、今度は街が見えなくなります。

全体と部分を同時に見ることができるものもあるかもしれません。例えばピクトグラムのような図像、アイコンです。青信号、赤信号の人型のマークのように、ひと目でそれが示す意味を見て取る必要のあるものについては、その色や形を単純化することによって、全体と部分をほぼ一致させることが意図されます。

この場合、部分と言えるほどの細かな部分はなく、全体と言えるほどの大きな全体はなく、部分と全体の差は極限まで小さなものとなっています。こうしたピクトグラムでは、伝える情報のデフォルメが行われ、それを見る人によって解釈の違いが生まれないように作られています。赤信号と青信号を間違える人がいたら大変です。

こうしたデフォルメでは、物事の複雑さが取り払われ、単純化が施されています。とはいえ、全体と部分の差がなくなっているわけではありません。その差が限りなく小さくなっているというだけで、未だ差は存在します。ピクトグラムを拡大して見ると全体がわからなくなりますが、そのような用途を想定していないというだけで、全体と部分はやはり別のものとして存在しています。

反対に、「芸術」と呼ばれるようなものは複雑さを要請するものですから、全体と部分をあえて乖離させることによってその価値を高めようとするものが多くあります。そのような場合、作品にはある程度の「巨大さ」が要請され、また絵画なら平面上の、彫刻なら立体上の複雑さが導入されます。

全体を見ている時は部分が見えず、部分を見ている時は全体が見えない。ということは、常に「見えていないもの」があるということを意味しています。全体を見ているということは、対象の「すべて」を見ているということを意味しません。なぜならその時、部分は見えていないからです。

この「見えていないもの」の中に、人の意識が把握することのできない領域が生まれています。それは、意識の死角のようなものです。こうした把握できない領域は人が知ることのできないものであり、そこに「神」や「芸術」「宗教」といった価値の拠り所があるように思います。

逆に考えると、見えているところに「神」はいないのかもしれません。部分を見ている時は全体に神が宿り、全体を見ている時には部分に神が宿る。人の目は、常に神から逸らされ続けるのかもしれません。ということは、神とは人の意識が生み出す産物、人の意識が自身の限界の果てに見出す産物とも言えるのかもしれません。

こうした部分と全体の関係は、視覚に限らず、人の認識全般に関わることのように思います。例えば「聞く」ことです。以前私が調子を崩した折、音楽を聞くことができない期間がありました。聞くことができないというのは、音楽を部分的に聞くことはできるのですが、その部分をつなぎ合わせて全体を想像することができないのです。

それは、部分を聞いてもすぐに忘れてしまい、すぐ隣の部分との関係もわからなくなるからでもあります。部分を聞くことも困難、それゆえ、部分から全体を紡ぎ出すことも困難、というわけです。こうした体験から、人は音楽を聞く時、部分を認識し、記憶し、記憶した部分をつなぎ合わせて全体を想像しているのだということがわかりました。

音楽に対して、人はその全体を把握することが困難です。3分、10分、1時間と言った時間軸の全体を一度に把握することはできません。部分を聞いて、それを記憶し、頭に中で統合することによって1つの曲として認識します。この統合の能力は、部分把握の能力とともに、人の認識を形作っているように思います。

また、音楽には時間軸とは別に、ある特定の一瞬の間に複数の音がなることによるレイヤー構造があります。このレイヤー構造は一瞬の全体を構成するとともに、複数の音、楽器に分解することで部分となります。ここで人は、部分と全体のジレンマに直面します。部分に耳をすませば全体が聞こえなくなり、全体に耳をすませば部分が聞こえなくなります。

こうした全体もしくは部分の把握の困難さは、音楽に感じられる神聖の度合いを左右します。困難であれば困難であるほど、複雑さをそのうちに含み、神の宿る領域が増えていくのです。けれども、こうした神の認知はある特定の文化についてのみ言えることなのかもしれません。単純さの中に宿る神、というものもあるように思われるからです。引き続き、考えてみたいと思います。