話の話①

関係性としての「話」の中で、人は与え、与えられる関係にある。それは意識のプロセスである。

人の話を聞く、ということは、人が話をする、ということである。人は独り言を言うかもしれないが、それはいわゆる「話」ではない。話とは、話をする人と聞く人の、最低2者がいなければ成立し得ない、関係性そのものとしてある。話をする人と話を聞く人は、その「話」が持続する時間の中で、相互にその役割を交換し続ける。「話をするだけの人」「話を聞くだけの人」といった固定された役割は、関係性としての「話」の中に存在することがない。

話をする人の役割は、アウトプットである。話を聞く人の役割は、インプットである。話を聞く人は、話をする人からのアウトプットをインプットし、さらに自身のアウトプットとして「反応」することによって、「話」の関係性を継続させる。話を聞く人によるアウトプット=反応次第で、話をする人の話は加速することもあるし、遅延することもある。方向を変えることもある。話をする人の話は、話を聞く人の「反応」に大きく依存している。

相手の話をインプットした結果としてのアウトプット、「反応」は、必ずしも言葉である必要はない。相槌や相手の言葉の繰り返しであってもよいし、細かな所作や顔の表情、息の吐きかた、視線の移動などもまたその一部となる。言語的な表現とは異なる形の表現もまた、話を聞く人の話として成立する。話をする人に対する聞く人の「反応」は揺らぎのあるリズムを刻み、関係性としての「話」の流れを自在にコントロールすることもできる。

重要なことは、それが相手の話を受けて、つまり相手の話をインプットした上での応答であり、反応であるということだ。ただそれだけで、「話」の関係性は維持される。話をする人にとって、話を聞く人の反応は1つの「祝福」である。この祝福は、話をする人の輪郭を形造る効果を持つ。人はこの輪郭なしに日々を過ごすことはできないし、自分を自分として認識することも難しい。話をする/話を聞くという関係性は、「自分」を確認するルーティーンを提供する。

話をする人と話を聞く人の役割は、継続する「話」の中で相互に交換される。それゆえ話を聞く人から話をする人へ与えられる「祝福」は、話に参加しているすべての人が受け取ることのできる「恩寵」である。話の過程で、話の参加者は相互に恩寵を与えあう。相手を祝福し、祝福され、最後には全員がいくらかの輪郭を手にして、話を終えることになる。関係性としての「話」の中で、人は与え、与えられる関係にある。それは意識のプロセスである。

話のプロセスが意識のプロセスである以上、話に参加している人の意識の在り方によって、与え/与えられる関係は反転し、奪い/奪われる関係にも変貌しうる。奪い/奪われる関係において「恩寵」は「憎悪」へ、「輪郭」は「否定」へと置き換えられる。関係性としての「話」の中で、意識が「収奪」の側にある時、交換されるのは「憎悪」なのだ。分かち合うのが恩寵か、憎悪かによって、集合的なムードが決まる。いったんどちらかのムードで回り始めた「話」のサイクルに抗して、その向きを変えるのは困難である。

恩寵も、憎悪も、話す人と聞く人の交換のサイクルの中で増幅し、それぞれのムードによって会話は満たされる。憎悪のサイクルにおいて、話の参加者は相互に奪い合い、最後には全員がいくらかの輪郭を失って、話を終えることになる。憎悪の関係性の中で、何かを得る者はいない。すべての参加者が、奪われて終わる。誰も得をせず、損しかしないこの関係性は、消耗と疲弊のスパイラルを構成する。

話の関係性の中で、交換されるのが「恩寵」なのか、「憎悪」なのか。これは、話の参加者の意識のプロセスによって変化する。与え、与えられる関係は一方向ではなく、相方向の関係であり、得をするときは全員が得をして、損をするときは全員が損をする。誰かが得をして誰かが損をするということはない。そして、与える者は与えられるし、奪う者は奪われる。ここでもまた、関係性の一般法則に例外はない。

2020/9/6
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