私は「読者」ではない

だからといって、読者として「自分」を想定してはいけない。なぜなら、私は「読者」ではないからだ。

本は、読者のために作られる。あらゆる仕事はサービス業であるけれど、本を作るという仕事も例外ではない。本という商品は、読者に提供するサービスとして作られる。例えば読者を楽しませるため、読者を試験に合格させるため、読者に新しい知識を得てもらうため、などなど。本にはそれぞれ固有の目的があり、読者がその目的をよりよく達成できる本が「よい本」であるとされ、「売れる本」であるとされる。その真偽はともかくとして、商品としての本はこのような特性を持っている。

そのため本の作者にとって、また編集者にとって、「読者を想像する」のはとても重要なことだ。本が語り掛ける相手が誰なのか? 年齢は? 仕事は? 年収は? 趣味は? どこに住んでいる? 家族構成は? といった様々な「属性」を想像し、中心となる読者を1人作り上げる。そしてその読者を中心に同心円を広げていき、読者として想定する範囲を設定する。円の色は中心ほど濃く、周辺に行くほど薄くなる。濃い読者ほどその本が想定する読者に近く、薄いほど遠くなる。

中心となる読者の属性とともに、読者が今直面している「課題」を考える。読者は、必要がなければ本を買わない。必要とは、直面している「課題の解決」である。読者の課題を解決するために、本は何をすればよいのか? その答えが、本の内容となり、本の仕組みとなる。多肉植物の育て方を知りたい読者には、その課題を解決するための本を。老後の資金に不安がある読者には、その課題を解決するための本を。こうした課題の解決に貢献することが、一般的な「本の価値」ということになる。

そのため作者や編集者は、この本の読者は誰なのか? そして、その人はどのような課題を持っているのか? を想像する。そして想像した「その人」が、「この本」を読むという体験を想像してみる。どのような体験であれば、その読者に喜んでもらえるのか? を考える。このとき、目次であれば読者がその目次を見るという体験を、デザインであれば読者がそのデザインを見るという体験を、見出しであれば読者がその見出しを読むという体験を疑似的に想像し、なぞってみる。

知人や友人の中に、想定する読者に近い人が見つかれば、その人を中心に考えてみるのもよい。また、属性を積み重ねて1人のキャラクターを構築し、その仮想された人物像を中心に考えてもよい。こうした読者像はあくまでも仮想されたものなので、そのリアリティに不安を持つことがあるかもしれない。また、うまく読者を想像できないという悩みを持つかもしれない。だからといって、読者として「自分」を想定してはいけない。なぜなら、私は「読者」ではないからだ。

「私は「読者」ではない」とは、本の読者が本の作者や編集者と一致することはないし、一致させてはいけないということだ。編集者は、作者は、読者として「自分以外」の誰かを想定しなければいけない。ごく稀に、自分と読者が近しい本を手掛けることがあるかもしれないが、それはレアケースである。自分とは異なる年齢、趣味、職業、住所、収入、家族構成、思想等々の持ち主を読者として本を作ることの方が圧倒的に多いのだし、またそうでなければ、年間10点以上の本を作ることは叶わない。

編集者が読者として「自分」を想定すると、本の対象となる読者の範囲が「自分」の枠内に限定される。その結果、自分以外の人に対する配慮の不足した本が作られてしまう。編集者は、「本を作る」立場にある。ある1冊の本に対して、編集者と読者、 2つの立場に同時に立つことはできない。編集者に求められる視点や資質は、読者のそれとはまったく異なる質を持つものだからだ。編集者は、自分を読者とすることに逃げるのではなく、自分以外の読者を想像することを求められている。

だから、特に編集者には「想像力」が求められる。本を作るという仕事では、「今はまだこの世に存在しない本」を想像することが求められる。そして、読者として「自分ではない誰か」を想像し、「その人物がどのように本を読むのか」を想像することが求められる。それは一種の扮装、演技に近い。あたかも「20代、独身、都心のアパートに住み、植木に興味のない男性」である自分が、「60代、子供が2人、郊外の一軒家に住み、庭いじりが好きな女性」であるかのように扮するのだ。

こうした想像力は、情報収集や観察によって養うことができる。日常的な情報のインプットや観察による人物的特徴の発見は、想像力の重要な源泉となる。しかし、結局のところ編集者に問われるのは、自分以外の人の「身になって考える」想像力の有無である。ここで言う想像力は、「共感」の能力ではない。「共感」は、自分と他者とを重ね合わせ、他者の感情、思考を共有する行為である。それに対して想像力は、「関心」の能力である。「関心」は、自分と他者との距離を残しながら、他者の感情、思考について想像することである。

共感において自分と他者は、共通の感情や思考の下、一体となる。1つの心を共有するのだ。そのためには感情や思考の背景となる共通のストーリーが必要になる。ストーリーは、他者の側から与えられる。しかし本を作ることにおいて、他者と自分が一体となることはむしろ避けなければならない。他者と自分が一体になるということは、同時に客観性を失うということであるからだ。また、ストーリーは他者から与えられるのではなく、自身が作り出さなければならない。

編集者に必要なのは、あらゆる対象に対して距離を取ること、客観性を保つことである。自分と他者は一体となってはならず、他者への「共感」も必要ない。そうではなく、他者に対する「関心」を持ち、自分と他者との「距離の中で」想像力を駆使すること。他者と一体化することで自分を捨て去るのではなく、自分を維持したままの状態で他者について思いを巡らすことだ。私は読者ではない。読者ではない場所から、読者を想像する。扮しつつも、冷めていること。

私は読者に扮して、その読者のために本を作る。けれども、私は自分がその読者ではないことを知っている。自分と読者は一致しないことを知っている。私は読者から離れた場所で、冷めた目で読者を眺めている。私はその読者に関心を持ち、読者に扮する遊びをするのだ。私は読者に扮して、今はまだない本を読むという行為をトレースする。そしてそのトレースしている自分を自覚している。本のタイトルを、目次を、内容を、仕組みを、デザインを考える上で、編集者の立ち位置は常に「ここ」である。

2020/4/3
littlemanbooks.net